バスケットボール温故知新 内海知秀

実るほど頭(こうべ)を垂れて part2

part1「時を経て、努力の結果を知ることもある」より続く

能代工時代、時折母や祖母が下宿の掃除に訪れた。それを見たチームメイトが付けたあだ名は『坊ちゃん』。「家の人が青森からわざわざ掃除に来てくれるなんて内海は坊ちゃんや」というのがその由来らしい。が、おそらく理由はそれだけではないだろう。生来の穏やかな性格、おっとりとした風貌が“坊ちゃん”を彷彿とさせたのかもしれない。だが、当時の監督、故加藤廣志は内海の中にある芯の強さを見抜いていた。「あいつは逆境でも怯まない。順風でも天狗にならない。自分の足元を見て伸びていける選手だ」── それが17歳の内海を評した名将の言葉だった。

レベルの高い選手と競い合うことで“欲”が芽生えた

── 能代工で3連覇を達成し、自分のプレーにも自信がついたと思います。将来のことも考えるようになったのでは?

中学のときもそうですが、能代工で全国優勝をしても自分の目標は『教師になること』でした。多分父の影響が大きかったんだと思います。それに高校のときも自分が将来バスケット選手としてやっていけるなんて考えてもみませんでした。日体大(日本体育大学)に進学したのも体育教師になりたいと考えていたからです。

── 高校時代、あれだけ注目された選手だったのにバスケット選手としてやっていける自信がなかったんですか? 常勝軍団、能代工のシューターと言われていたのに?

はい。当時から“シューター”と言われてましたが、自分でそういう意識はあまりなくて、1年上に小野さん(秀二・現能代工高校監督)という優れたポイントガードがいたので上手に使ってもらっていたというか、そのおかげというか。そもそも私が考える当時のシューターのイメージは ※谷口(正朋)さんとか ※結城(昭二)さんみたいな選手だったんですね。いい意味でギラギラして、オーラがあって、まあ、なんて言うか、とにかく自分とは違っていました(笑)。

※谷口正朋:1946年生まれ。中央大→日本鋼管。日本を代表するサウスポーシューター。ミュンヘン五輪(1972年)では9試合で191点を挙げて得点王に輝いた。

※結城昭二:1950年生まれ。中央大→住友金属。「ポスト谷口」と呼ばれた高確率のサウスポーシューター。モントリオール五輪(1976年)代表メンバーでもある。

── 性格的にそういうギラギラ感がなかった?

ギラギラ感?そうですね、それはあんまりなかった(笑)。でも、大学2年のときかな、ユニバーシアードのメンバーに選ばれたのがきっかけで少し変わったんです。ユニバのチームの監督は亡くなった小浜(元孝)さんだったのですが、小浜さんはこのとき日本代表チーム、いわゆるA代表の監督も兼任していたのでユニバ組とA代表はいつも一緒に練習していました。アメリカに遠征したときも一緒にケンタッキー大で合宿もしたんですよ。つまり自分たちの上のレベルの選手と日々競い合うことができたわけです。そうすると、ああ日本代表というのはこういうレベルなんだということがだんだん肌でわかってきて…。

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