バスケットボール温故知新 内海知秀

実るほど頭(こうべ)を垂れて part2

── 上のレベルを知ることで眠っていた何かが目覚めたということでしょうか。

言い方を変えればそうかもしれません。ああ日本代表というのはこういうレベルなのかと肌で感じることで意識が変わっていった気がします。ユニバーシアードで世界を見たことも刺激になって、指導者としてではなくプレーヤーとしてバスケットを続けたい気持ちが芽生えました。

── それで日本鉱業に入社されたわけですね。同じ年に日本代表メンバーにも選出されました。

はい。日鉱でも代表でも本当に色々な経験をさせてもらいました。日鉱は日本リーグ(当時のトップリーグ)に所属していたチームですが、成績不振で2部リーグに降格する屈辱も味わいましたし、オリンピック出場を目指していた日本代表では、ロサンゼルス(1984年開催)は予選の決勝で中国に敗れて行けなかったですし、次のソウル(1988年開催)では韓国に負けて行けなかった。悔しい思いもたくさんしました。

── 現役を引退なさったのは?

29歳のときですね。

── 29歳! まだまだできる年齢じゃないですか。ちょっともったいない気がしますが。

たしかに今ならまだまだできる歳ですよね。でも、当時はどんな選手でもだいたい30歳前後で引退したんですよ。私たちは企業に入ってバスケットをやっていましたから、30歳が近づくと「そろそろ引退して仕事に専念してください」みたいな声がかかるんです。昔はそれがあたりまえでした。今思うともったいなかったですけど(笑)。ただ私には現役を引退したら指導者になりたいという思いがあったので、会社に残ることは考えていませんでした。翌年には札幌大のコーチになるために北海道に飛んだんです。

── 大学のコーチとして第二の人生のスタートを切ったわけですね。話が横道に逸れるようで恐縮ですが、内海さんと同世代のトップ選手は現役引退後大学の指導者になった方が多いように感じます。能代工の1年先輩の小野秀二さんは愛知学泉大、同じく1年後輩の鈴木貴美一さん(現シーホース三河ヘッドコーチ)は秋田経済法科大、現在も池内泰明さんは拓殖大、陸川章さんは東海大で指揮を執り、北原憲彦さんも江戸川大の部長を務めていらっしゃいます。

おっしゃるとおり当時の代表チームのメンバーは指導者になった人が多いですね。あのころは現役を引退したらそのまま会社に残ってサラリーマンになるか、退社してどこかのチームのコーチになるかでしたから、結果的に私たちの代は後者を選んだ者が多かったということでしょう。その受け皿として大学チームがあったのではないかと思います。その後、私は女子のJOMOサンフラワーズ(現JX-ENOSサンフラワーズ)、小野さんは男子のトヨタ(現アルバルク東京)や日立(現サンロッカーズ渋谷)、貴美一はアイシン(現シーホース三河)と、いわゆる実業団を見るようになったのも1つの流れだったかもしれません。

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