どうせ跳ぶならもっと高く!(2)より続く
定めた目標に向かい全力で走り抜いた2年間
網野友雄が日本大学の川島淳一監督(故人)から「チームの指導をサポートしてもらえないか」と言われたのは日大が関東大学リーグで2部に降格してしばらく経ったときのことだ。
それまでもオフシーズンにはちょくちょく練習に顔を出していたが、おそらく川島監督の頭には自分の後継者として網野の名前が浮かんでいたのではないだろうか。日大には3年後に開設予定の新しい学部があり、「そこの教員を目指して大学院に行くのはどうか」と、具体的な提案もされた。
「それが筑波大の大学院に入学したきっかけです」

シーズン中は早朝に宇都宮からつくばに向かい午前中の授業を受け、また宇都宮に戻り午後の練習に参加する。週末はリンク栃木ブレックスの選手として試合に出場。オフの月曜日は朝から筑波大キャンパスで受講し、授業終了後は日大に直行し練習の指導を終えると再び宇都宮に帰る。想像するだけで疲れてしまうハードスケジュールだが、さらに日大の試合があるときはボランティアでベンチにも入っていたというから驚く。これって正確には二足じゃなくて三足のわらじって言うんじゃないの?
「たしかにハードスケジュールではありましたね。特に勉強は大変でした。でも、自分の将来に直結することだし、授業料も全部自分で出していたので元取らなきゃみたいな気持ちにもなるじゃないですか(笑)。とにかく人生で初めてというくらい勉強しました。自分でも驚いたのはそうこうするうちにだんだん勉強が楽しくなっていったことです。知らないことを知る、新しい知識を得るってこんなにおもしろいんだなって。めちゃくちゃ大変だったけど、学ぶことの楽しさを知れた2年間だったと思います」
ひたむきな努力が実を結び、無事大学院を卒業できる目処が立ったのを機に現役引退を表明。その翌年にはまだボランティアの立場ながら日大のヘッドコーチを務め、悲願の1部復帰も成し遂げた。網野が目指した『母校の教員になって正式にチームの指揮を執る』という夢の実現はすぐそこまで来ているはずだった。
「でも、夢が実現する日は来なかったんですよね。大学の規定としてバスケット部枠で教員になれるのは1名で、すでに1人採用されている者がいるからこれ以上は増やすことはできないと告げられました。これまで費やしてきたものを考えると、正直ショックは大きかったですが、結局だれが悪いわけではない。日大の組織に認められるだけの力が自分には足りなかったのだから切り替えるしかないと思いました」
だが、描いていた未来図が白紙になり、プロ選手でもなく教員でもなくなった今、明日からどうやって生活していけばいいのか。不安がなかったと言えば嘘になるだろう。さぁてどうするか?と考えていたとき、携帯が鳴った。
「知らない番号でした。僕は知らない番号の電話には出ないことにしているんですが、そのときはなぜか『出た方がいい』と思ったんですね。なんでそう思ったのかは不思議ですけど。で、電話に出たら『突然、すみません。白鷗大の佐藤です』とあいさつされたんです」

女子バスケ部の佐藤智信監督のことはもちろん知っていた。が、言葉を交わしたことはない。少し驚いていると、電話の向こうの佐藤監督はこう続けた。「今、白鷗大の男子バスケ部で監督の公募を行っています。網野さん、応募してみませんか?」
白鷗大、監督、公募……予期せぬワードがいきなり頭に飛び込んできた。
「正直、当時の白鷗大は有名選手が揃っていたわけでもなく、それほど強い印象もなく、僕の中あったのは “やんちゃなチーム” というイメージ。最初に頭をよぎったのは、あそこを優勝できるチームに育て上げるのは難しそうだなということです」
だが、同時にどこかで「待てよ」と囁く声がする。「難しそうだけどなんだか楽しそうじゃないか」 ── 。心はすでに動き始めていたのかもしれない。











