どうせ跳ぶならもっと高く!(1)より続く
バスケのプロ選手、さらにその先の将来を見据えて日大に進学
網野友雄の高校時代の最高成績はインターハイ東京都予選7位。インターハイやウインターカップはおろか関東大会出場の経験すらない。しかし、バスケ歴2年ちょっとの少年はそんな舞台を飛び越えてアジアカップのコートに立った。
「大学でもバスケを続けて卒業したらプロ選手になりたい」と思ったのはそのころ。走力、跳躍力、得点力を兼ね備えた次代のオールラウンダーには熱視線が集まり、進路を考える時期になると6校もの大学からオファーがあったという。
その中で日本大学を選んだのは『体育の教員免許が取れる』、『上下関係があまり厳しくない』という2つの希望が叶えられるチームだったからだ。現役を引退した後は指導者になることを考えていた網野にとって1つ目の条件は不可欠。「正直2つ目の条件はなかなか難しかったんですが」と笑うが、隣りの中学から日大に進んだ先輩が「俺は来年3年になるから何かあったときは必ず守ってやる」と言ってくれたことに心が動いた。
加えて大きかったのは日大から提示されたスカラシップ(入学金や授業料を免除する制度)の付与だろう。「ありがたかったですね。うちは1歳違いの兄も大学生だったので、学費のことを考えたら少しは親孝行できるんじゃないかって」。母から言われた「4年間精いっぱい頑張って必ず日大に恩返ししなさい」という言葉も新たな闘志を沸き立たせた。
しかし、入学した年、網野は早々とこれまでにない “悔しさ” を味わうことになる。

自分で自分を変えなければ上には行けない
「スペインで開催されるU19世界選手権の日本代表候補だったんですが、15人から12人に絞られる最終選考で落とされました。悔しかったですね。自分も出場したU18のアジアカップで3位になったことで勝ち取った世界選手権だっただけに余計に悔しかった。そのとき監督を務められた佐藤久夫先生(故人・元明成高校監督)に言われたのは『世界と戦うにはおまえは細すぎる。その身体では弾き飛ばされて世界では通用しないだろう』ということです。実際、当時の自分はすごく痩せていてフィジカル面で劣っていたから納得するしかなかった。ただそれでもやっぱりものすごく悔しくて、この悔しさを晴らすためには死に物狂いで身体を作るしかないと思いました」
すぐに実行したのは知り合いのトレーナーさんに頼んで自分に合わせたフィジカル強化のメニューを作ってもらうこと。2週間に1度はマンツーマンでトレーニングの成果を確認してもらった。トレーナーさんへの謝礼やその他の費用は「全部自分がバイトしたお金で払った」という話からも “18歳の本気” が伝わる。目標にしていたのは2年後。2001年に埼玉での開催が決まっていたヤングメン世界選手権で日本代表に帰り咲くことだ。
「2年間、ハードなトレーニングを継続し、とにかく飯を食いました。ほんとにもう毎日死ぬほど食いましたね(笑)」
結果、手に入れたのは15kgの増量による当たり負けしない体と挑戦をあきらめない強いメンタル。自分で自分を変えた網野は見事ヤングメン世界選手権日本代表メンバー入りを果たした。まさに有言実行!徹頭徹尾、初志貫徹、奮励努力…話を聞きながら感嘆の四字熟語が次々と浮かんでくる。

高校デビューからあまりにも早くその存在を知らしめたせいか、正直、当時の網野に抱いていたのは『恵まれた運動能力を武器に一気に日本代表まで駆け上がった選手』というイメージだった。しかし、違った。彼は高い壁を楽々と “ひとっ跳び” したのではなく、定めた目標に向かって地道な一歩を積み重ねる選手だった。
自分に足りないものを考えること、それを身につける方法を模索し、なりたい自分になるために努力を惜しまないこと。それはその後のバスケ人生においても彼の核となり、経験によるアップデートを繰り返しながら日本代表として戦う世界の舞台やトップリーグのコートで躍動する網野友雄を形成していくことになる。











