入団も移籍も引退も決断に迷いはなかった
2006年に契約社員としてJBLトヨタ自動車アルバルクに入団した網野は、2年後にアイシンシーホース三河に移籍。在籍した6シーズンの間に天皇杯4連覇、リーグ優勝2回の輝かしい戦歴を残し、2011年に移籍したリンク栃木ブレックスで現役を引退するまでの4シーズンを過ごした。一方、22歳で選出された日本代表(A代表)では2006年の世界選手権をはじめ数々の国際試合に出場。スターティングメンバーとしてチームを牽引する存在感も示した。
「在籍した3つのチームではそれぞれいろんな経験をさせてもらいました。トヨタに入ったときの自分は未熟で生意気だったと思うし、プレータイムを求めて移籍したアイシンでは優勝という最高の喜びを味わうことができました。キャプテンを務めたことも得難い経験だったと思っています。ただ自分が本物のプロになれたと実感できたのはブレックスに入ってから。アイシン時代も名目上はプロ選手でそれに恥じぬよう全力を尽した自負はありますが、サポートしてくれる企業がバックに付いていてくれたおかげで集客もチケット売り上げもさほど心配しなくていい環境でした。見に来てくれるお客さんはいつも1500人くらいだったかな。ところが、試合で栃木に行くと常に3000人以上のファンが集まるんですよ。それもこのチームのプレーを見たいという熱狂的なファンです。すげーなと思ったし、ファンの大声援に背中を押されて戦うブレックスの選手が羨ましくもありました。その中には同期の田臥勇太や安齋竜三(シーホース三河HC)もいて、彼らと一緒にこのチームでプレーしたいという気持ちも大きかったです。当時のブレックスはお金があまりない球団だったから練習場所とか遠征先で泊まるホテルとかいろいろな面でレベル差を感じたし、僕の年俸もそれまでの半分くらいになっちゃいましたけど、全然気にならなかったですね」

うん?ちょっと待って。サラッと言われたので聞き流すところだったが、今、年俸が半分くらいになっちゃったって言いました?
「言いました(笑)。契約の前に年俸が書かれた書類を提示されたんですが、そのときはもうブレックス行くと決めていたから『お金に関係なく自分のやりがいとしてここでチャレンジしたいと思っているのでこれは必要ありません』と中身を見ないでそのまま返しました」
それは、なんとまあ男前な…。
「僕は人からよく “アスリート脳” って言われるんですが、切り替えが速いというか、1度決めたら迷わないというか、そういう性格なんです。自分が何を求めているのかわかった時点で(移籍は)もう決断していたので、給料などを含め他のことはあまり問題にしていませんでした。それよりも宇都宮の町を歩くと、飲食店でもスーパーでも『試合見てるよ』、『次も頑張ってね』とたくさんの人が声をかけてくれて、町ぐるみで応援してくれるような環境がうれしかったです。当時のブレックスはなかなか勝てなくて、黒星が続くとめちゃくちゃ申し訳なくて町を歩けないような気持ちになりましたが、だからこそ強くなって皆さんの期待に応えたい、ここから強いチームをつくっていくぞ!という気持ちが沸いてきた日々だったと思います」
トップリーグで走り続けた12年間。良いことも悪いこともたくさんあったが、バスケット選手としての気概は持ち続けてきたつもりだ。「本物のプロになれた」という実感も手ごたえも得られた。ベテランの域にさしかかる32歳の “その先のプレー” に期待するファンも多かったのではないか。しかし、網野はそこに留まることを選ばなかった。彼が次に目指したのは指導者になり次代の選手を育てるという道だ。

「その準備として10年目に筑波大の大学院に入学しました。現役プロ選手として練習を怠ることなく、試合にも出場しながら大学院で学ぶという生活を始めたわけです」
『始めたわけです』って、それ、二足のわらじってことですよね。
「はい、プロと学生の二足のわらじです。(大学院を)卒業して、プロ選手を引退する34歳までの約2年間、宇都宮とつくばを往復してました」
プロと学生の二足のわらじ?2年間の遠距離通学?聞いた方がびっくりすることをこの人はどうしてこんなにサラッと言ってしまえるのだろう。
どうせ跳ぶならもっと高く!(3)へ続く
文 松原貴実
写真 鈴木真人











