── 当時のバスケットボール界に2mを超す選手は何人くらいいたのでしょうか?
そのころは大きいといっても190cm台後半の選手が多かったと思います。その中で204cmあったのは、堀越学園から中央大に進んだ斉藤文夫さんですね。先日亡くなられたことが本当に残念ですが、僕より1つ年上で代表でも一緒にプレーしました。忘れられないのは僕より4歳上で204cmあった沼田宏文さんです。沼田さんは同志社大学から松下電器に入社してミュンヘンオリンピックにも出場した選手。“ジャンボ”の呼び名が示すとおり2m台選手の草分けのような存在でした。誰に対しても細やかな気配りができる方で、性格が穏やかで本当に優しいんです。僕がこれまで出会ったバスケット選手の中で1番優しい人かもしれません。斉藤さん、沼田さんはともにモントリオールオリンピックで戦った仲間でもあるので今でもなつかしいですよ。
── 日本で最も大きいと言われた岡山恭崇さんが日本代表入りするのはそれから少しあとになるわけですね。
そうですね。岡山君と僕は同い年ですが、彼は高校(九州学院)まで柔道をやっていたんですよ。バスケットを始めたのは大阪商業大に入ってからですからバスケットのキャリアは短いんです。でも、あの身長ですからすぐに有名になって、大学2年か3年のときのインカレで対戦したときもやっぱりデカいなあと思いましたね(笑)。けど、そのときはまだ210cmちょいぐらいだったと思います。そこからまた20cmぐらい伸びたんだからすごい。(日本)代表では彼を真ん中に置いてゾーンを敷くのが効きましたね。彼を中心にしたゾーンはどんなチームもそう簡単には攻められない。それでインディアナ大にも勝ったんですよ。今から思うと、数年間で210cmから230cmに伸びるっていうのは関節とかいろんなところが痛かっただろうし、辛いことも多かったはずです。同じコートを走るのでも僕たちと岡山くんではわけが違う。でも、彼は決して弱音を吐かなかったですね。頭が良かったから短期間でバスケットのいろんなことを吸収して、自分の身体を神様からの贈り物と思ってるみたいにいつもポジティブに頑張っていました。当時海外のチームと勝負できたのもそんな彼の存在があったからこそ。日本にとって本当にかけがえのない存在だったと思います。同じ時代を戦ったビッグマンとして尊敬できる選手でした。
part3へ続く
「たとえ手も足も出なくてもオリンピックに行かなきゃわからないことがあるんです。」
文 松原貴実
写真 沼田侑悟