part2「レベルの高い選手と競い合うことで“欲”が芽生えた」より続く
日本のトッププレーヤーから地方の大学のコーチへ。そこからさらに女子の強豪チームへ。初めて歩く道は決して平坦ではなかったが、「すべてが勉強。自分にとってすべてが貴重な時間でした」と振り返る。日本代表チームのヘッドコーチに就任したのは2003年。翌年にはアテネオリンピック出場を懸けた壮絶な戦いが待ち受けていた。
日の丸の重さを知る自分が代表を率いるという運命(さだめ)
── ジャパンエナジーJOMOサンフラワーズ(2013年にJX-ENEOSサンフラワーズに改称)のヘッドコーチを引き受けられたことは指導者としての転機だったように思います。男子から女子、学生から実業団と指導の場が変わることについてはどのように考えられていたのでしょうか。
最初は迷いましたし、決心するまでは悩みもしました。背中を押してくれたのは札大で過ごした13年だったと思います。というのも札大は地方の大学ですからトップレベルの選手が多く集まってくるわけではない。私が在籍した13年の間にインカレ(全日本大学バスケットボール選手権)こそ連続出場しましたが、1回戦で勝ったのは1度だけです。選手たちはもちろん一生懸命バスケットに取り組んでいますが、自分が現役時代に『できてあたりまえ』だと思っていたことができないことも多い。このぐらいはできるだろうじゃなくて、できないことをできるようにする練習から始まります。繰り返し、繰り返し、日々積み上げていくみたいな。
もちろんJOMOは女子のトップチームですから優秀な選手たちが揃い、レベルが高いことはわかっていました。でも、当然男子と女子では異なる点がありますし、私にとっては未知の世界でのスタートになるわけです。そんなとき、札大で選手たちとコツコツ積み上げてきた経験が生きるんじゃないかと思いました。もし私が札大ではなく、最初から強豪校のコーチになっていたらJOMOの話は受けていなかったかもしれません。13年間札大で培ってきたものがあったからこそ新しい場所でトライしたい、トライしようという気持ちになれたんだと思います。
── ヘッドコーチに就任された当時のメンバーは?
大山妙子、浜口典子、川上(現楠田)香穂里、桜庭珠美など日本代表クラスの選手が揃っていました。前年までチームを率いていた金平鈺さんはアトランタオリンピック(1996年開催)にも多くの代表選手を輩出したすばらしいコーチ。ありがたいことにその金さんが3年間アシスタントコーチとして力を貸してくださいました。選手への声掛けひとつにしても金さんから学ぶことは本当に多かったです。