── そこではどんな仕事をされていたのですか?
ゲームのデザインですね。本当は東京に行きたかったんですが、当時はお金もなかったので札幌の会社に就職したんです。働いたのは3年半ぐらいでしょうか。で、20歳のころ会社から帰る途中、頭の中に中学のとき考えていたマンガのキャラたちが浮かんだんです。
── 『ECHOSE』の原型となったキャラクターたちですか?
そうです。頭の中に勝手に浮かんできて(笑)。でも、考えてみたらその経験は専門学校に通っていたころもあって、頭の中で物語を膨らませていたような気がするんですね。就職して、20歳になって、自分が少し大人になったことで中学生の妄想に近かったものが人間の輪郭を持ち始めたのかもしれません。無意識のうちに考えていた作品のことを初めて自覚したというか、自分が一番やりたいものに初めて気がついたというか。でも、すぐには行動に移せませんでした。悶々としながら会社勤めは続けていたんです。会社を辞めてマンガを描こうと決心したのは大震災が起こったあとでした。
── 2011年の東日本大震災ですか?
はい。あの大震災があったとき、人生には何が起こるかわからないなと思いました。自分の身にだって明日何が起こるかわからない。それならば僕は今、自分にしかできないことをやりたい、それをやってから死にたいと思ったんです。けれど、実際にその気持ちを姉に伝えたのはそれから1年後。泣きながら電話して、実家に帰って両親を説得して、上京したのはその3か月後です。
── ご家族に気持ちを伝えてから行動に移すまでは早かったですね。
早かったです。早いというか、無謀というか(笑)。住むところも仕事も何も決めないまま上京したんですよ。最初は飯田橋のユースホステルに1週間ぐらい泊まって、それから格安のシェアハウスを探して引っ越して、食べるために居酒屋でアルバイトを始めました。でも、それだけでは食べていけなくて、しばらくしてゲーム会社の派遣社員になったんです。札幌にいたときと同じくデザイナーの仕事でしたが、違っていたのはもう自分がやりたいことがはっきりわかっていたこと。必ず『ECHOES』を描こうと、それだけはブレていませんでした。
part3「バスケを愛する人たちと響き合って、もう一度『BREAK THE BORDER』を描きたい」へ続く
CAMPFIREクラウドファンディング
女子バスケ漫画「BREAK THE BORDER」続刊制作プロジェクト
文 松原貴実
写真 バスケットボールスピリッツ編集部