日本歴代のビッグマンを語るとき、『北原憲彦』は絶対に欠くことができない名前だ。高さとフィジカルの強さを併せ持ち、パワフルなプレーでゴール下を支配した彼は間違いなくそれまでのセンターとは一線を画す存在だった。日本国内はもとよりモントリオールオリンピックをはじめ数々の世界の舞台で日本の主軸として活躍し、引退後は男女問わずさまざまなカテゴリーのコーチとして後進の育成に携わった。現在は江戸川大学社会学部経営社会学科の教授として教鞭を執ると同時に同大学バスケットボール部の部長を務め、空いている時間を縫ってNBAの解説者もこなす。64歳にしてまだまだつづくバスケット人生、あなたにとってバスケットとは?と問うと、大きな笑顔とともに「僕にとってバスケットは楽しいもの。これまでの人生、いつだってバスケットは楽しかったです」のことばが返ってきた。
すみません。実は3cmサバ読んでました(笑)
── 北原さんはいつからバスケットを始められたのですか?
中学1年生のときからですね。それまでは剣道をやっていました。うちの両親は2人とも公務員だったんですが、息子には勉強以外にも何か打ち込めるものを与えたかったみたいで小学生のときから剣道を始めたんです。自分で選んだわけじゃないから、始めたというよりやらされたという方が合っているかもしれません。正直、僕はあまり楽しくなかったんですよ。というのも練習するのが警察の道場で、防具とか竹刀とかは全部留置場に置いてあるんです。長野の田舎だから留置場に入っているような人はいなかったけど、やっぱり、子ども心にね、毎日留置場に入るのはいやだなあっていうのがあって(笑)。中学に入って好きな部活を選んでいいと言われたときはすごく嬉しかったのを覚えています。
── バスケット部を選んだのには理由があるのですか?
いろいろ迷ったんですけど、近所のお兄ちゃんがやっていたのと、顧問の先生がとても熱心に誘ってくださったことが決め手になりました。
── 当時はすでに大きかった?
大きかったですね。小学校を卒業するときには180cmぐらいあったと思います。
── 180cmの小学生は目立ちますね。
しかも今から50年以上の前の小学生だからそりゃ目立ちましたよ。ところが、うちの母はおしゃれだったというか、いつも僕に田舎の子どもが着ないような派手な服を買ってくるんです。ただでさえ目立つのにそんな服着たら目立ちまくりじゃないですか。でも、母は「体が大きくて目立つからこそ、ちゃんとした服を着るべきだ」と言うんですね。「大きいことは全然恥ずかしいことじゃない、胸を張って歩きなさい」みたいなことをずっと言われていました。それでも当時はおしゃれな服を着る自分が恥ずかしかった(笑)。母のことばの意味をちゃんとわかったのはずっと後になってからですね。今でもそれは母の教えとして心の中にあります。
── 高校は東京の明大中野高校に進まれました。
はい。中3で197cmになっていたので、それなりに注目されたのか東京の高校からはいくつもオファーをいただきました。お話を持ってきてくださった方の1人が明治大学バスケット部のOBの方で、田舎から単身上京する僕のために大学のバスケット部の合宿所に住めるよう手配してくださったんです。当時の大学の合宿所は中野にあって、高校までバスで10分ぐらいで行けたんですね。そういう安心感もあって明大中野に進学することを決めました。