それにしても京都ラーメンはうまい。
僕は無類のラーメン好きで、各地へ遠征に行くたびに有望なラーメン屋を訪れては一喜一憂を繰り返す日々を送っているのだが、とりわけ京都はレベルが高いように思う。
そんなことを偉そうに語れるほど数をこなしているわけではないので、もちろん異論は認める。
しかしながら、京都という地から受ける上品なイメージと、京都ラーメンの奔放な、誤解を恐れずに言えば極めて下品なその味わいとのギャップは僕を魅了してやまない。
直近で京都を訪れた際も例外なくラーメン屋へと足を運び、麺タルトレーニングに勤しんだものだ。
そのときに訪れた店は老舗でありながらも行列の絶えない人気店で、僕も何度かお世話になっているが並ばずに入れたことはない。
少人数同士の客はカウンターが空いていない場合、テーブルで相席をするのが基本となっており、この日の僕はやたらと荷物の多い老夫婦と相席をした。
どうやらこの夫婦は近所に住む常連客であるらしく、店員と親しげに会話を交わしており、その内容から察するに今日は東京への旅行帰りに立ち寄ったということらしかった。
しかし、ただ客が店員と世間話をするといったこの光景に、僕は違和感を覚えた。
僕はこれまで、多忙を極める大繁盛店において、店員が隙を見ては常連客と程よい距離感での雑談を楽しむ光景というものを目にしたことがなかった。
大体は仕事感丸出しの素っ気無い対応か、店内教育がやり過ぎなほどに行き届いたパーソナルスペースゼロの圧迫接客の店ばかりだからだ。
それに比べてこの店では極めて自然に、近所の寄り合いにでも来ているかのようなテンションでコミュニケーションが行われている。
こういった店側の気配りにいたく感心し、それによって生まれる居心地の良さも人気の理由なのだろうと僕は納得した。
僕の注文をとってくれるときも、突き放しすぎず、近づき過ぎず、絶妙な距離感でのやりとりがなされ、年に一度来るかどうかのほぼ一見さんのような者でも、毎日来ているような安心感を抱くところがあった。
このときふとひらめいたのだが、実は、これが京都ラーメンの正体なのではないだろうか。
客がなにを求めているのか真摯に向き合い、緻密で繊細な試行錯誤の末に生まれたのが、あのラーメンなのだと僕は思う。
京都の誇る品の良さこそが、僕たちが心から求める下品を生み出したのだとすれば、このギャップに説明がつけられるというものだ。
うん、違うか、違うな。
まあ別になんでもいいんだけどね、とにかくうまいし。
ほどなくして目の前に現れたラーメンをすすっていると、正面の老夫婦がお帰りになるようで、会計のために店員を呼びつけていた。
大きな荷物を抱えて旅行に出かけるくらいなので、見た目の年齢よりはとても元気そうに見えるけれど、お疲れのせいか奥様がお支払いに手間取っている。
「いやや、なかなか小銭が出てこんわ。えーっと、100円、200円……」
無邪気に笑いながら財布をごそごそやっていると、隣の旦那様が優しく声をかける。
「あっはっは、疲れとるなあ、大丈夫か?……(店員に向かって)ところで今、何時(なんどき)や?」
僕もこれくらい気の利いた返しができる大人になりたいと、切に思う。
今回の引用元:『昭和元禄落語心中』/雲田はるこ/講談社
石崎巧
1984年生まれ/北陸高校→東海大学→東芝→島根→BVケムニッツ99(ドイツ2部リーグ)→MHPリーゼンルートヴィヒスブルグ(ドイツ1部リーグ)→名古屋→琉球/188cmのベテランガード。広い視野と冷静なゲームコントロールには定評がある。
著者近影は本人による自画像。