── ところが、内海さんは能代工に進学することになる。
そうなんですよ。みんなで同じ高校に行こうと約束してたのに(笑)。あとから聞いた話なんですが、東北大会で私のプレーを見た秋田の中学の先生が能代工の加藤先生(故加藤廣志監督)に「青森にいい選手がいる」と話してくださったみたいなんですね。で、うちに来ないかという話をいただいて…。
── 驚きましたか?
驚きました。当時の能代工はすでに強豪校として有名だったらしいですが、私はその存在も知らなかったし、自分が青森を離れてバスケットをやるなんて考えたこともなかったので。それですぐに中学のメンバーに相談したんです。
── 同じ高校に進むつもりだったメンバーですね。
そうです。真っ先に相談しました。
── 「俺、秋田の強豪高校からオファーをもらっちゃった」と。
はい、言い方は少し違っていたかもしれませんが(笑)。そうしたら、みんなが「そんな話をもらったなら行くべきだ」と言うんですね。「やってみろよ、頑張れよ」って。それで心が決まったんです。能代工に行くことを決心したのはそのときでした。
── ご両親も賛成してくださった?
そうですね。実はうちの父は青森県のバスケット協会の理事もしていたので、今考えれば息子を県外に出すことには複雑な思いもあったと思います。周りにはいろいろ言う方もいたでしょうし。でも、父はそういったことを私には一切話しませんでしたね。自分が決心したのなら頑張ってこいと、それしか言いませんでした。
── 内海さんはそれまで能代工の存在も知らなかったとおっしゃいましたが、入学してから練習はやはり厳しかったですか?
それはもうね、ものすごく厳しくて最初のうちはついていけませんでした。練習が終わって帰ってくると下宿の階段を上れないんですよ。筋肉痛で足が上がらないんです。慣れるまではそんな毎日が続きました。毎日がヘロヘロでヨレヨレ(笑)
── まだ15歳、こんなにきついのなら能代に来なきゃよかったと思いませんでしたか?
不思議とそれはなかったです。逃げたいとか辞めたいとか思ったことはなかったですね。むしろ練習についていくためには体力をつけなきゃいけないと思って、夜走りに行ってたぐらいです。近くに能代港という小さな港があるんですが、そこまで走りに行くのを日課にしていました。
── ヘロヘロでヨレヨレなのに?
ハハハ(笑)、まあ、しばらくすると練習にも慣れてきましたから。朝早く体育館に行って朝練の前にシューティング練習して、夜は1番最後まで残って練習して、帰って夕飯を食べてまた走りに行く毎日でしたね。当時、県外から来ていたのは田口さんという岩手出身の先輩と私だけだったので、その分頑張らなきゃという気持ちがあったのかもしれません。頑張れよと言ってくれた青森の仲間や何も言わず送り出してくれた父や、そういう存在がどこかで自分を支えてくれていたような気もします。