── 多嶋さんは大学卒業後、栃木ブレックスの育成チームであるTGI D-ライズに入りました。育成選手としての生活はどんな感じだったのでしょうか?
多嶋 育成契約であっても給料は出ますから、それと子どもたちにバスケットを教えるクリニックの講師料を合わせたもので生活するという感じです。ありがたいことに僕はブレックスの練習に行かせてもらっていましたし、コールアップされて(ブレックスのメンバーとして)試合に出たこともあります。ただ午前中にD-ライズの練習に出て、午後からブレックスの練習に行き、それに夜のクリニックが重なるときは、ほぼ1日体育館で過ごすことになるのでかなりハードだったのは事実です。僕はその生活を2年続けましたが、正直「3年目はきついなあ」と思っていました。
── そのタイミングでレバンガから声がかかったということですね。
多嶋 そうです。25歳のときですね。
── そのときの心境は?やっぱり「やったー!」という感じですか?
多嶋 もちろん素直に嬉しかったです。帯広市出身の自分にとって北海道でプレーできるという喜びもありました。ただ、そのときはチームに阿部さん(友和・現富山グラウジーズ)というポイントガードがいたので、自分が試合に出られるかどうかわからない。それでも、出られなくてもいいと思って飛び込みました。
── 試合に出られなくてもいい?
多嶋 はい。出られるものなら出たいですよ。でも、とにかく1年間はトップリーグのバスケットを肌で感じて、そこがどんな場所なのか経験してみたいと思ったんです。当時は試合に出たいとかいう前にそれだけを考えていました。
── そこから7年。昨年、一昨年はキャプテンを務め、今やレバンガを代表する選手になったわけですが。
多嶋 振り返ると、ほんとにいろんな人に助けられてきたなあと思います。なかでも僕が入った年にヘッドコーチになったウルタドさん(フアン・マヌエル・ウルタドHC)からは多くのことを学びました。スペイン出身のコーチなのですが、彼に鍛えられたおかげで(レギュラーシーズンの)半分ぐらい試合に出られるようになりましたし、自分にとってすごく大きな1年だったと思います。
── 一方、橋本さんは常勝軍団と言われたアイシンシーホース三河(現シーホース三河)に入団しました。
橋本 はい。ただし僕が入団した年は、入れ替わるように佐古さん(賢一・現日本代表アシスタントコーチ)が引退、竹内公輔さん(現宇都宮ブレックス)、網野友雄さん(現白鷗大学バスケットボール部監督)などが移籍してチームが大きく様変わりしました。