ベテランウェイトレスの運んできたハンバーグオンローストビーフには、ライスとサラダがついていなかった。
ご飯が三倍進むでお馴染みのオニオンソースを添えられているにもかかわらず。
それでなくても、肉をいただくのにご飯を省くなんておよそ人間のやることではない。
太古の昔からホモサピエンスの間では「ノーミート、ノーライス」と語り継がれているように、この二者は切っても切り離せない強い絆で結ばれているのだ。
あるいはこの店は、新進気鋭のハンバーグ団体として一旗あげることを目論んで新しいスタイルを採用しているのだろうか。
そして僕がそのスタイルに合致する客であるかどうかを今まさに、フロンティア精神の塊のようなシェフに試されているところなのだろうか。
どちらにしても僕に残された時間は少ない。
既に鉄板から音が失われてしばらく時間が経ってしまっていた。
遠征先の食事はホテルで用意されることが多いが、まれに食事会場の都合などにより各々で夕飯を取るよう指示されることもある。
若干億劫ではあるが、その土地の美味しいものを食べに出るよい機会と思えばちょっとした楽しみに変わるものだ。
僕は基本的には、その街に根付いた個人経営の飲食店を目指して入ることが多い。
せっかくいつもの日常とは離れた場所で食事を取るのだから、日本中どこでもお目にかかれるようなチェーン店は避けて、地元の人たちに慣れ親しんだ味わいを体験してみたいのだ。
ある週の遠征でも各自で夕飯を取ることとなったので、ネットで見つけた魅力的なハンバーグ店にお邪魔することにした。
実はこの店には前日も訪れており、看板メニューであるハンバーグがとても美味しく、他の料理も食べてみたいと思わされる実力だったので次の日もお世話になることを決め、二日連続の来店となった。
昨日眺めていたメニューには、しっかりとハンバーグがクローズアップされる脇でステーキ肉が慎ましく控えており、なかでもサガリステーキには得も言われぬ魅力を感じた。
今日はサガリをどーんと豪勢に決めちゃおっかな、と鼻息荒く入店したものの、昨日は確かにあったはずのサガリの文字がどこにも見当たらない。
そんなはずはない、確かにサガリはあったのだ。
隅々まで見渡してもサガリのサの字も見つからず、目的を達成できない焦りが募る。
さらに店員のおばちゃんの注文取りが異常に早く、常軌を逸したプレッシャーが僕を襲う。
この私にプレッシャーをかける給仕係とは一体何者なんだ?
全身を赤に染め上げてこそいなかったものの、量産型の店員の三倍は早かったように思う。
身の危険を感じた僕は本能的に、昨日までサガリがいたはずの場所に鎮座していたローストビーフとハンバーグのコンボに軌道修正をかける。
すると、給仕係はさも当然のことといった表情で引き上げていった。
プレッシャーから解放された直後、メニューをもとの場所に戻すとその裏側にはなんと“ステーキ”の文字が。
それは追い求めていたサガリとは違ったが、写真を見る限り絶品には違いない。
なんという大失態、赤くない彗星のプレッシャーに気圧されて裏を確認する余裕すら失っていたとは。
こうなったら今からでも注文を変更してもらうべきだろうか。
いやだがしかし、そのためにはやつのプレッシャーを跳ね除けなければならない。
いけるか…?
どうみても戦況は不利だ。
シェフは既にハンバーグのタネをペタペタやってるし、赤くない彗星ときたらシェフとの世間話に夢中でこちらを気にかける素振りも見せない。
他に客が全くいないこの状況で「すいません…」などと切り出し、調理中の手を止めさせてまで注文の変更を申し出ることのできるニュータイプがこの世にどれだけ存在するだろうか。
魂が重力に束縛され続けてストックホルム症候群な僕には、ローストビーフがステーキより三倍くらい旨いことを祈って待つくらいしかできなかった。