『芝浜』という噺があって、これが僕はとても好きなんだけれど、有名な演目だからご存知の方も多いのではないだろうか。
初めて聴いた『芝浜』は立川志らく師匠だった。
まだ落語を聴き始めて間もない頃だったので落語のいろはをよく理解してはいなかったが、それでもなにかに感じ入って涙がこぼれた。
まあ別に今でも落語のなんたるかを理解しているわけでは到底ないのだけれど、笑うためのものと思っていた落語で泣くことになるとは夢にも思っておらず、その日からゆっくりと沼にはまり続けているように思う。
この『芝浜』には有名な、あまりにも有名なオチのセリフがあって、僕も何度となく酒の席でそのセリフを呟いては結局ビールを飲み干し、夢と現実の境目を彷徨い続けたことは数え切れない。
誰かと体験を共有したことこそないけど、間違いなくこれは落語ファンあるあるなのではないかと思う。
だが、『芝浜』で僕が最も印象に残っているのはこのオチの部分ではなく、改心した魚勝の勝五郎が若い衆に言ったこのセリフだ。
「今のうち、おめえたちも湯行ってこい。芋洗うようだぜ。」
噺の中のこの日は大晦日で、そのせいで銭湯はすごい混雑だったよってことなんだが、芋を洗うような銭湯って見たことないし、それって結構な悪夢じゃなかろうかと、僕は震えたものだった。
日頃の疲れを癒しに銭湯にきてみれば見渡す限りのおっさんで、通勤ラッシュかと思うくらいの距離感におっさんがひしめいている。
そんなお風呂じゃどう考えてもゆっくりできやしない。
お湯に浸かることで疲れを増し、加齢臭を増して帰ってくるなんて、そんなの酒でも飲んで夢にしてしまわないとやってられないだろう。
だがもちろん、現代ではこんな状況は起こりえない。
温泉、サウナ、スーパー銭湯など、世のおっさんたちを癒やす施設がこんなにも充実した21世紀において、芋を洗うような銭湯なんて存在するはずがない。
そう思っていた僕が芋を洗うような湯に出くわしたのは、松山の道後温泉でのことだった。
誰もが心の中に、自分だけの温泉街を持っている。
温泉街というのはこうあるべき、というイメージは人それぞれだとは思うけれど、僕の抱いているイメージと道後温泉の佇まいはちょっと違った。
僕が思うに温泉街というものは、山沿いで傾斜のある、緩やかな坂になった土地の真ん中を川が流れていて、その両サイドにいくつもの旅館が並び、浴衣姿の旅行客がしゃなりしゃなりと歩道を歩く、そんな場所なのだ。
にもかかわらずこの道後温泉ときたら、電車を降りたら5秒でまず商店街。
所狭しとお土産物屋や飲食店が軒を連ね、初見の観光客の進行速度を鈍らせる。
これを食さずして松山を語れるものか、と言わんばかりに、坊ちゃん団子やタルト、鯛めしなど様々な誘惑が行く手を阻み、さらにそれぞれのお店の合間を埋めるように、愛媛が生んだビッグスター、おミカン様を取り扱うお店が何度となく出現する。
この甘い誘惑の罠ストリートを強靭な精神力で乗り越えた真の勇者のみが、一番奥に待ち構える道後温泉に入浴する権利を獲得する、というシステムになっているのだ。
鋼のメンタルを持つ僕でさえ、両手にビニール袋三つ、大きな紙袋一つをぶら下げてのゴールという見るも無残な結果となってしまったので、一般の方々には五合目くらいがいいところかもしれない。
もしこれから行く予定があると言う人がいるならば、気持ちを強く持って出かけることをオススメする。