── NKKのバスケットボール部が廃部になったのは1999年。それは同時に陸川さんの現役引退の年になったわけですが、どのような心境でしたか?
あれは天皇杯に向けてのキャンプ中だったから12月ぐらいかな。部長から「申し訳ないがリストラが始まってバスケット部の廃部も決まった」という話がありました。ショックでしたね。家に帰ってカミさんと泣いたのを覚えています。
── その後しばらくは社員として勤務されました。
廃部になり引退が決まったときのショックは大きかったですが、そのあと頭にパッと浮かんだのは大学チームの指導者になりたいということでした。18歳~22歳のカテゴリーを教えて、いっぱしの男として社会に送り出したいと思ったんです。実はいろんなチームからオファーはいただいていました。でも、やるなら大学を見たかった。その中で1つ決まりかけた地方の大学があったんですが、99%決まったところで白紙になってしまった。その前のオファーはすべてお断りしていたのでさあどうするか。そこでNKKにお願いしてサラリーマンを続けさせていただくことにしました。
── 完全にバスケットから離れた生活が始まったわけですね。
そうです。仕事に追われ、周りに揉まれる日々です。大きなプロジェクトを任されたときは、それこそ夜中の2時、3時まで死に物狂いで働きました。もちろん1人ではなにもできません。みんなで知恵を出し合い、力を合わせ、困難と思えることを1つひとつ乗り越えていく。その結果、日本で初めてと言われるほど大きなプロジェクトを成功させることができました。私にとって、バスケット以外で初めての成功体験です。その後の生き方にもつながるとても貴重な体験でした、
── サラリーマンとして1つの大きな結果を残されたにも関わらず退社し、指導者への道に進まれたのはなぜですか?
やっぱりバスケットが大好きだったからでしょうね。心の声が囁くんですよ。おまえはこのままでいいのか?このまま本当にバスケットから離れられるのか?って。私が私に聞いてくるんです。ここで会社を辞めるなんてバカじゃないのと言われても自分の心に嘘はつけません。自分はこのままバスケットから離れることはできないと思いました。
part4「東海大の監督に就任し、最初に掲げた目標は『インカレ優勝』」へ続く
文 松原貴実
写真 吉田宗彦