地震大国である日本は、これまでにも度々大震災に見舞われてきたが、それが身近な出来事となると、やはり心を突き動かされる。「実家は壊しちゃって、今はもう更地になってるので、輪島には帰る家がない」という池田も、被災の記憶を風化させたくない一心でバスケットに取り組んでいる。
「まさか自分が住んでた街があんなことになるとは思ってなかったので、当事者になるとみんなに忘れないでほしいという気持ちはすごく感じてます。地元が被災したという喪失感は、そこにいる人にしかわからない。でも、気にかけてくださる方は全国にたくさんいると思うんです。能登の人たちには、私たちのプレーで元気になってほしいですし、全国の皆さんには能登を知ってほしい。私たちはそのきっかけの存在になれたらいいなと思ってます。
私は中学校を卒業して能登を出てしまったんですけど、私が今やってることを地元の皆さんに見てもらえるとか、子どもたちに返していけるというのは、愛知県に住んでいても能登のために働きかけができるということ。自己満足になるかもしれないですけど、それができるのは嬉しいし、自分にしかできないことかなと思ってます」
こんな考え方は良くないかもしれないが、震災があったことで池田は再びバスケットに目を向けることができた。チームのオーナーを務める人物は池田の中学校の同級生であり、リーグがチーム数増加に動いたことも、池田にとってはプラスに働いた。縁やタイミングが、池田の人生を変えたということも言えるのかもしれない。
「オーナーはチームの立ち上げを昔から考えてくれていたんですけど、震災のタイミングで『今だからこそ作る』と言って、よく決めてくれたなと思います。クラウドファンディングをしたのも、私に声をかけてくれたのも、いろんな方が協力してくださったからですし、本当に大きなタイミングだったと思います」
タイミングという意味では、池田が一度離れた後にバスケット界が目覚ましく発展したことも、前向きに受け止められる材料だ。日々バスケットの注目度が高まる中で、3×3という競技の持つ可能性も、池田の想いをさらに強くしている。地元への愛着、バスケットへの愛着を原動力に、池田はコート狭しと走り回る。
「3×3は、いろんな選手の生き方を表現できる場。自分たちの想いをここで表現するというところは、チームのみんなにも声をかけてやってます。競技柄、自分たちが主体的にやるというのもありますし、モチベーションやチームの向かう先は明確になってると思います。最初からそう簡単にうまくはいかないと思うんですけど、ラウンドを重ねるにつれて自分たちが成長していってる姿を皆さんに見てもらいたいと思ってます。私は最年長で、みんなよりは少しだけ経験もあるので、若い世代に伝えていきながら自分のパフォーマンスも保って、良いプレーを見せていきたいと思います」
文・写真 吉川哲彦