「犬になりたい」
目の前の長椅子に座っていた妊婦がつぶやいた。
短い間隔で襲いかかる陣痛が緩んだ、ほんの僅かな間のことだった。
「どういうこと?」
付き添いで来ていた配偶者と思しき男性が発言の意味を確かめる。
疲れきった様子の妊婦が消耗しきった声で答えた。
「犬は安産なのよ」
病院の近くにあるラーメン屋が美味いので、妻の婦人科検診について行った。
車で待っていても手持ち無沙汰だし、話し相手になってもらおうといかにも心配してるヅラして待合所で並んで座っていたら、
「男性の方はちょっと・・・」
と遠慮がちに遠慮を求められた。
道理で先ほどから妙な視線を感じたわけだ。
その病院内の婦人科と産婦人科は同じフロアにあり、各科の受診者以外は基本的に立ち入ることのない構造となっていて、その空間の一番手前に設けられた多目的スペースで関係者は待機するようになっていた。
当然、ご婦人の常識に一切馴染みのないデリカシー皆無な男性など僕以外には存在しないため、閑古鳥のなく多目的スペースを我が城として長椅子にどっかと腰を下ろし、こんなこともあろうかと持参した文庫本を開いた。
印刷された文字を目で追いながらも慣れない環境になんとなく落ち着かない心持ちでいると、程なく入り口から一人の男性が入ってきた。
なんという蛮行であろうか。
ご婦人方の聖域に汚れた男が乗り込んでくるなど極めてけしからんことである。
デリカシーの欠片もあったものではない、一国一城の主として猛省を促さなければと正義の炎にかられて本を閉じ、「もし、こちらは婦人科ですが」と声をかけようとしたその矢先、すぐ後ろからこれでもかと言わんばかりにお腹を膨らませたご婦人が拙い足取りで現れた。
ご婦人は甲高い声で途切れ途切れに何かを呟いており、その声質たるや我が家で猫ズたちを溺愛する際のコミニュケーション手法に酷似していたので、公衆の面前でイチャつくなど破廉恥極まりないご夫婦だと憤慨していたら、よくよく聞いてみるとあまりに激烈な陣痛のために声が裏返り、思考回路はショート寸前、今すぐ会いたいよ我が息子(or娘)な境地に達していたらしく、たびたびに渡る無礼を働く僕は月かあるいはそれに準ずるセーラー戦士にお仕置きされるべきと猛省した。
どうせなら水星戦士を希望する。
妊婦はどうやら初産のようで、陣痛が始まったため来院したものの破水しておらず出産は夕方以降になる見込みと告げられ、帰宅して再来院するかこのまま入院するかの選択を迫られているようだった。
妊婦は帰りたがっているようだが陣痛に苦しむ妻の姿を見かねた夫は入院を勧めており、話し合っている矢先にまた陣痛が訪れて、その都度やり取りがリセットされた。
そして何セット目かの問答が反復された後、妊婦の発した『私は犬になりたい宣言』が二人の停滞した時間を前へと進めた。
「犬に限らず四足歩行の動物はお産が軽い」
「へえ」
へえ。
「犬も猫もポンポン産み落とすでしょう」
「確かに」
確かに。
「二足歩行なんかに進化したばっかりに、こんな苦しみを味わう羽目になってしまったのよ」
「…」
…。
そう言って妊婦はまた、痛みの中へと引きずり戻されていった。