僕は根っからの引きこもり症なので、家から出るなと言われて困ることは毛ほども思い当たらなかったりする。
世間が日に日に騒がしくなっていく様子を見ながら、
「これから大変な毎日になりそうだ」
などと危機感を募らせて数週間が経ち、なるべく人との接触を避けるような生活を心がけてみたが、思い返してみるとこれは普段となんら変わらない日常であり、微塵のストレスも感じていないと最近気づいた。
もちろん自分は特殊な人間であり、たまたまこの異常事態に適した人種であったというだけの話で、逆に「家にいてはいけません。外に出て多数の人間と触れ合うクラブなどの盛り場に毎日通いなさい」と言われたら恐らく発狂すると思うので、僕の対極にいる人々の気苦労は察するにあまりある。
引きこもりにとって、自宅でできることは無限だ。
世間とは違う意味で終わりのない日々が続いている。
家にいる時間が増えたら今までより読書に費やす時間が多くなるだろうな、と思って買いためておいた本ですら一向に読み進められていない。
だって家にはゲームもあるしゲームもあるし、それからあとゲームだってある。
朝起きてゲームのスイッチを入れたが最後、次の瞬間には日が暮れているというくらい僕の一日を溶かし続ける。
さすがにこれでは社会人としてあまりにお粗末と思い、朝の少しの時間を読書にあててみたのだが、これは意外と良い習慣になるかもしれないと思えた。
僕のような職業の人たちが本を読みたがらない大きな理由の一つに、読書中に眠くなってしまう現象があると僕は考えている。
これはなにも運動ばかりしてきたせいで学力が低いとか、脳味噌まで筋肉化してしまったとか、今晩のおかずはプロテインですとかそういう話ではなくて、単純に日々のトレーニングによる疲労の影響が大きいのではないだろうか。
一般的に、身体的な負荷のかかった状態では脳の活動も低下する傾向にあるようで、我々のように日ごろから身体を追い込み続けなければならない人間は、本から得られる情報を処理する能力自体が損なわれてしまっているのだと思う。
だとするならば、睡眠によって記憶が整理され、1日の中で最も眠気の少ない朝の起床後(二度寝含む)に本を読むことは、情報を定着させるタイミングとして最も有効だろう。
普段の生活であれば、起床したのち優雅に本を読みふける時間などあろうはずもないが、今だからこそできる高等遊民のような家での過ごし方としてはなかなかオススメである。
とはいえ、自分の興味のない分野についての本を無理に読むような、なかば義務感による読書の場合は、三度寝及び四度寝に突入することも避けられないかもしれないが。
そういうわけで見事にAM知識人へとクラスチェンジを果たしたわけだが、最近読んだ本に「共有地の悲劇」という言葉がでてきて、これは我々人類にとって大きな問題だと考えさせられた。
ご存知ない方のためにざっくり説明すると、みんなで共有しているものをみんなが決められた分だけ使っている間はその状態が長く続くけど、誰かが欲を出して勝手に自分の取り分を多くしてしまうと、長期的には全員が損をする、という話だ。
よく話題にのぼる例として、蟹の漁獲量がある。
いや、よく話題にのぼる話かどうかはとりあえず置いておいて、蟹は漁の時期と水揚げ量が厳密に決められており、違反すると罰則が科される。
これは、バカみたいに美味しくて高値で取引される蟹が好きなだけ獲り尽くされてしまうと、繁殖することができなくなって絶滅してしまうからだ。
これにより一時的には世の中に蟹が溢れて全人類が幸せの絶頂に達するが、しばらくするとご家庭にも料亭にも蟹が並ぶことはなくなり、蟹漁師は路頭に迷い、核戦争によって文明と秩序が失われ、モヒカン姿のザコキャラがヒャッハー!と暴れ回る世紀末が訪れる。
もはや暴力が全てを支配する世の中で、胸に七つの疵を刻まれたあげくに、愛を取り戻すべく復讐の鬼となって立ち上がらざるを得なくなった若者を生み出さないためにも、蟹はみんなで守らなければいけないのだ。
なんだか共産主義的な香りが漂うようでいて、実は高度な自由民主主義の世界における課題である「共有地の悲劇」だが、実は皆さんの身近なところにも潜んでいる問題で、身に覚えがあるのではないかと思う。
そう、回転寿司だ。