もう何年も前のことだ。
冬のよく晴れた日のこと、JR岐阜駅の改札を抜けてホームへの階段を上ると、春風亭一之輔師匠がいた。
僕はこの日、若手ナンバーワンとの呼び声高い彼の落語を聴きに岐阜までやってきた。
駅から直結のホールで催された高座だったため、イベント終了後の混雑を嫌った僕は足早に帰途についた。
だが、まさかそこで渋滞を引き起こす張本人に出くわすとは夢にも思わなかった。
ついさっきまで、会場いっぱいの人々を笑わせていた憧れの噺家さんが目の前にいる。
どうしよう。
声をかけてお話してみたい。
一緒に写真撮ってもらって渡邉裕規に送りつけてやりたい。
でもやっぱり終わった直後でお疲れだろうし、迷惑かもしれない……
ホームで大男がモジモジしていると、お弟子さんとこの後のスケジュールを確認する会話が聞こえてくる。
どうやらこの後、名古屋で新幹線に乗りかえて品川まで行くらしい。
この日のイベントは昼の早い時間だったため、もしかすると末廣亭で夜の出番があるのかもしれない。
そういえば、さっきから一之輔師匠はなんだか落ち着かない様子だ。
きっと次のネタを考えているのだろう。
だとすれば雑念を入れるような真似はしたくない。
とりあえず末廣亭の番組表をチェックして、出番があるのか調べてみよう。
そう思ったが、あいにく僕の携帯はガラケーだったので調べられなかった。
そうこうしていると、ひとりのおばちゃんが一之輔師匠に気づいた。
おばちゃんはなんの迷いもなく師匠に声をかけ、握手をしてもらい、写真を撮ってもらって悠然と去っていった。
この地上におばちゃんより強い生命体は存在しない。
改めてそう思い知らされた。
だが一連の流れから察するに、師匠はまだ気持ちを緩めてはいないようだ。
快くおばちゃんの要求に応えてはいたが、表情に余裕はなかった。
やはり師匠にはこの後も仕事が控えている。
むやみに声をかけて心を乱すようなことをしなくてよかった。
ありがとう、おばちゃん。
あなたのおかげで僕は、今晩の末廣亭のお客さんから恨まれなくてすみます。
程なくして到着した電車に乗り込み、名古屋で下車した僕は、新幹線乗り場へと消えていく師匠を無言でお見送りした。
僕も職業柄、人から声をかけてもらうことは少なくないが、声をかける側の心境を味わったのは初めてだった。
こんなにも複雑な心持ちになりながら、それでも勇気を振り絞って声をかけてくれる人たちってすごい。
そう素直に感じた。
と同時に、そりゃ変なこと口走っちゃったりするよな、めっちゃ緊張するもんな。
なんてことも思った。
あのときの子どもたちもこんな精神状態だったのかもしれない。