当時から将来はトップリーグでプレーしたいという夢があり、1年、2年と出場した全国大会は夢に向かってのステップとも言えた。しかし、3年になった年、熊谷は思いもかけなかった深くて暗い穴に落ちることになる。最初の穴はパワハラ問題で監督が退任したこと。それでもチームは夏のインターハイでベスト8という成績を残し、ウインターカップ予選も勝ち抜くが、その矢先部員の間で暴力行為があったとして『3ヶ月の公式戦停止』が勧告される。無念さ、悔しさ、どうしようもない憤り…穴の底にあったのは3年間積み重ねてきたものが目の前で崩れ落ちていくような虚脱感だった。さらに追い打ちをかけるように熊谷を襲ったのは人生初めての大ケガ。
「ウインターカップ出場が決まったあと本番に向けて他校との練習試合が組まれたんです。(ウインターカップに)出られなくなった僕たちにとって意味がないかもしれないけど、試合は予定通りに行われることになりました。僕たち3年生にとってこれが最後の試合。いろんな思いはありましたが、気持ちを入れ替えて臨もうと思いました。けど、そこで僕は脛の骨を2本折る大ケガをしてしまったんです」
診断は重く全治10か月。すでに卒業後の進学先は大東文化大に決まっていた。が、入学してもしばらくはコートに立つことはできない。「さすがにメンタルがボロボロになりました。今振り返ってもあのときは本当につらかったです」。しかし、1人暗い穴の中に身を置いていると、うっすら見えてきたものがある。それはこれまでわかったつもりでいてわかってはいなかったこと。「ボロボロになったメンタルもケガを負った足も治せるのは自分だけなんだなあって。あたりまえのことだけど、自分を修復できるのは自分しかない。だったら今は自分にできることを精一杯やる。それしかないと思いました」。苦しんだからこそ気づけたこと。つらい状況だからこそ拾えた成長の種。その日から熊谷の懸命なリハビリ生活がスタートした。
大東文化大のユニフォームを着て初めて試合に出たのは秋のリーグ戦だった。ケガが癒えての復帰戦で西尾吉弘ヘッドコーチからスタートでの起用を告げられる。「ケガが完治したとはいえ、試合に出られるのは次の年ぐらいかなと思っていたのですごく驚きました。それもスタメンということで、期待してもらっているならそれに応えたいという気持ちでいっぱいでした」。それ以後、熊谷はポイントガードとしてスターティングメンバーに定着、チームを関東大学2部リーグから1部に押し上げる原動力となった。「最初のうちは上級生にちょっと遠慮するじゃないですけど、そういう面もあったかなと思います。でも、練習や試合を通して徐々に意識が変わっていきました」。それより大変だったのは「留学生とのコミュニケーション」だという。当時チームにはモッチ・ラミンという後輩がいたが、「彼はいつもすごくボールを欲しがる。でも、僕には僕の(ポイントガードとしての)考えやプランがあるので常に衝突していました。留学生と一緒にプレーするのは初めてだったこともあり対応に戸惑うことも多かったです」。だが、熊谷とラミンは互いに自分の思いをぶつけ合うことで互いを理解し合い、ゆっくり信頼関係を築いていく。それが花開いたのが3年生のときのインカレ。熊谷は「生まれて初めて上がった決勝の舞台」でラミンをはじめとするチームの武器を存分に引き出し日本一の栄冠を勝ち取った。長いケガからの復帰、下級生ポイントガードとしての葛藤、留学生とぶつかり合った日々の中で拾った成長の種。「苦しいときほど成長できる。今でも僕はそう思っています」
part2「ポイントガードほどおもしろいポジションはない」へ続く
文 松原貴実
写真 沼田侑悟