── いや、この“ドペーペー”って言葉がツボにハマりました。いただきます。
萩原 いや、本当に“ドペーペー”だったんですよ。アテネでも試合がある日に「よし、シン、今日もウェイトトレーニングに行くぞ。マックスで上げるぞ!」って(笑)。
大神 そうそう。余談になるけど、ベンチプレスを70キロ上げたら、オーさんがアイスクリームを買ってくれるって言うので、自分、マジで死に物狂いで上げたんです(笑)。これがアテネの思い出のひとつです。
萩原 オリンピックで何をやってんだか……(笑)。
── え、オリンピック期間中ってことですか?
萩原 そう、選手村のなかで。
大神 試合が続くのでチームとしての練習量も落ちてくるじゃないですか。でも自分はまだ若かったので、どれだけやっても疲れないし、出たら出たでマックスでやれる自信もあったので、毎日のようにウェイトトレーニングに行っていたんですよ。で、ベンチプレスの70キロ……この「70キロ」というのが当時の壁で、67.5キロとかは上げられるんですけど、2.5キロを足した70キロがなかなか上げられなかったんです。でもオリンピック期間中に上げて、オーさんにアイスクリームをごちそうしていただきました。
萩原 ハハハ(笑)。
大神 それは忘れない。
萩原 何やってんだかって話だよね(笑)。
「日本人で初めてファウルアウトしました」(大神)
大神 すいません。で、WNBAについては、オーさんが日本人初の選手で、アトランタ五輪が終わったあとから発足されたという歴史も知っています。ただ自分がどのタイミングで行きたかったかといえば、正直な話、もう少し後です。アメリカに挑戦したいという気持ちはジャパンエナジーに入社するときからあったんです。ただすぐにWNBAというのはまだ遠い存在だと思っていたので、現実的にはまずアメリカの大学に行きたいなと思っていました。桜花学園を卒業して、ジャパンエナジーに入社した年の7月に世界ジュニア(現・FIBA U19女子ワールドカップ)がチェコ・ブルノであって、チームの成績こそ最下位から2番目だったんですけど、自分が得点王を獲得して、そのときにいくつかの大学から声をかけてもらったんです。アメリカの大学は9月からなので。当然「行きたい」という思いになりますよね。でもそのときはすでに入社していたので行けるわけもなく……ただそのときから海外に本気で目が向き始めました。いつか海外に行くんだ! って気持ちになって、じゃあ、ジャパンエナジーで何年プレーしたら海外に行けるんだ? と。毎年シーズンオフになると、ジャパンエナジーの部長に「今年は挑戦させてもらえますか?」プッシュしていました。でも(会社側は)「まだじゃないか?」って……
萩原 会社側としてはそう言うよね。
大神 そう、「もうちょっと待て」と。しかもWリーグのシーズンが終われば、日本代表の活動も早めに動き出すので、シーズンが終わったらそのまま少し休んで代表活動に入って、遠征、遠征、遠征……。気持ち的に遠ざかっていたわけではないけど、そんな感じでした。
── 2004年のアテネ五輪以降、徐々に女子日本代表も大神さんがチームの中心になっていくから、チームとしても余計に出しづらかったのでは。
大神 それもあるでしょうし、自分自身を振り返っても、当時の女子日本代表のガードには三木(現姓・中村)聖美さんがいて、ポイントガードのポジションをしっかり確立できていたかといえばそうじゃなかったんです。だからまずは日本代表でポジションを確立しなければいけないなという思いもあった分、当時の優先順位はまだ日本代表にあったのかな。自ら日本代表を背負っていくという覚悟のほうが、その当時は強かったですね。
── その後、大神さんは2008年にWNBAでプレーしました。そのとき萩原さんに何か相談をしましたか?
大神 オーさんからメッセージをもらったのは「私が日本人としてWNBAのトレード第1号だからね」って(笑)。チームはフェニックス・マーキュリーで一緒でしたから。
── 萩原さんはサクラメント・モナークスからフェニックスに移籍をしている。
大神 そう、そのトレードが(日本人としては)1号だよと。「だからシンも何かの1号になれるように」って言われて、私が作ったのは日本人で初めてファウルアウトをしたという記録です(笑)。
萩原 (爆笑)
大神 私、たぶん12分くらいで6回ファウルをしました。最後はチャージングで退場しました。
萩原 すごい……そうなんだ。
大神 アトランタ・ドリーム戦でした。だからアドバイスというよりも、WNBAを経験したオーさんならではのエールを送ってもらいました。
特別対談延長戦
【全文掲載】女子バスケットのレジェンド初対談! 大神雄子×萩原美樹子の「女子バスケ温故知新」
③ 世界〜日本女子の可能性
文・三上太 写真・安井麻実