「こんな高校生は見たことがない!」(萩原)
── お互いがそれぞれの存在を認識したのはいつですか?
萩原 私はウインターカップで見た時ですね。名前は聞いていたけど、ウインターカップで優勝して、お父さんとお母さんを呼んで、何かパフォーマンスをしたんだよね。あれって3年生のときだっけ?
大神 3年生のときですね。
萩原 たしか叫ぶか何かして、東京体育館が沸いたんですよ。いっぱいの人たちの注目を集めて。そんな高校生は見たことがないから、なんだかすごいのが出て来たな、みたいな。
大神 ハハハ(笑)。
萩原 それが初めての印象です。
── 大神さんが萩原さんを初めて認識したのは?
大神 私はジャパンエナジー……共同石油というよりはジャパンエナジーの“オーさん(萩原さんのコートネーム)”として知りました。でも存在自体を認識したのはアトランタオリンピックのときかな。あのときのメンバーに入っていて、その後アメリカ(WNBA)に行った人がいるって感じで。
萩原 ちなみにそのときいくつ?
大神 アトランタ五輪が1996年ですよね? だから中学生?(Spirits註:当時14歳。中学2年) そのころはまだ“オーさん”とは知らないので“萩原さん”。五輪メンバーのなかからアメリカに行った人がいると知って、そのあと勝手ながら経歴などを調べさせてもらったんです。そこで東北の人だと知って、父親と話していたら、実はオーさんは福島の進学校(県立福島女子。現・県立橘)を卒業して、勉強もできるんだよって聞いたんです。そこで自分も勉強をしっかりしなきゃいけないなって思ったんです。
萩原 今、作ったでしょ(笑)?
大神 いや、本当に! すごい進学校で、めちゃめちゃ頭がいいって父から聞いたんです。父はオーさんのバスケットのことはもちろんですが、先に進学校から共同石油に入ったんだよってところから教えてくれたんです。バスケットだけじゃないんだと。だからといって自分の勉強ができるわけじゃないんですけど(笑)、すごく頭のいい人なんだってそのときインプットされました。
萩原 実は私が高校2年のときに(大神さんのお父さんである)大神(訓章)先生から声をかけてもらっているんです。当時は山形大学のヘッドコーチをされていて、私はインターハイの1回戦で負けるようなチームだったから、まさかその後日本一の実業団から声がかかるような選手じゃないと思っていたんです。でも身長は大きかったので、なんとなく地元に残るのではなく、レベルの高い大学でバスケットがしたいなって考えていたときに、最初に声をかけてくださったのが大神先生なんです。「山形大学に来てやらないか?」と。当時山形大学が東北で一番強かったので。
大神 ええ! 聞いたことない。
萩原 「ああ、私は県外でできる可能性があるんだ」って最初に提示してくれたのが大神先生。(大神さんは)その娘っていう感じ。