「自分がなりたい自分になる」── 石崎巧という生き方(2) より続く
ドイツで本物のプロになった
海外挑戦の場をドイツに決めた理由は単純だ。エージェントがいるわけでもなく、スポンサーがいるわけでもない石崎にとって「唯一つてがあったのがドイツだったということです」。当時ブンデスリーガ(ドイツのトップリーグ)1部のゲッティンゲンを指揮していたのはトヨタ自動車アルバルクのヘッドコーチを務めたことがあるジョン・パトリック。面識のある人を介して連絡を取り、「自分の意志を繰り返し伝えることで練習に参加させてもらえることになりました」。が、あくまで身分は『練習生』、当然のごとく無給であり、期間も2ケ月足らずの短いものだった。日本代表活動もあって一時帰国した石崎はbjリーグ島根スサノオマジックと1年契約を結ぶが、その間もプレーできるドイツのチームを探し続けていたという。翌年、ブンデスリーガ2部のBVケムニッツ99ersと正式に契約を交わすことができたのは「いろんな方の助けやラッキーな偶然が重なったおかげ」だった。
「まず日本にこういう選手がいると広めてくださった人たちがいて、それを聞いたトーステン・ロイブル(3×3男女日本代表ディレクターコーチ)が以前自分がコーチしていたケムニッツに紹介してくれたんです。ただ、いくらトーステンの紹介とはいえ、はい、わかりましたと簡単に契約できるほど甘くはありません。チームとしては同じ外国籍ならアメリカの選手を取りたい意向があったみたいです」。そんな折、ドイツのブンデスリーガ1部のチームが来日し日本代表と親善試合を行うことになった。日本代表のメインガードを務めたのは石崎。「そこで思いのほかいいパフォーマンスができたことが評価され、ケムニッツとの契約につながったと聞きました」。夢への一歩と言える念願の正式契約。住居と車は提供してもらえるとはいえ年俸は安く「日本円にすると260万円ほどだった」というが、それでも自分が目指した道を突き進み扉を1つこじ開けた達成感は大きかった。あとはこの場で努力を重ねるのみだ。
当時、石崎のプレーは欠かさずチェックしていたという陸川監督(東海大学)は「日本にいてもあいつの努力は伝わってきました。チームの中でどんどん存在感を増しているというか。活躍する様子からしてもうケムニッツのスターになってるんじゃないかと思いました」と笑う。その言葉どおりケムニッツで活躍する石崎は人気者だった。地元ファンには「イシ、イシ」と呼ばれ、歩いていれば子どもたちがサインをねだりに駆け寄ってくる。2シーズンが過ぎ、チームが契約継続を希望したのも想定内と言えるだろう。だが、石崎が選択したのはその申し出を断りブンデスリーガ1部のチームを目指す道だ。険しい道であることは十分承知していた。1部チームとなればレベルが一気に上がる。外国籍選手枠を勝ち取るためには有力なアメリカ人の選手たちと競わなければならない。受け入れてくれるチームがないまま “浪人” になる可能性も高かった。「今でもあれはある意味賭けだったなあと思います。よくもまああんな決断をしたものだと(笑)。なんの保障もない状況の中でやれることといったら自分を信じることだけでした。もっと成長したいという自分とそのために踏み出した一歩を信じるしかなかったです」