2020-21シーズン終了後、琉球ゴールデンキングスから石崎巧の引退が発表された。1984年生まれのゴールデン世代の1人。いや、1人というよりその世代を牽引してきた代表格と言っていいだろう。
『長身でありながら抜群のドリブル能力。見るものを驚かせるアシスト、勝負所では自ら得点をすることもでき、相手にとって最も守るのが難しい選手だ。また優秀なディフェンダーでもある』── これは2006年の全日本学生バスケットボール選手権(インカレ)のプログラムに掲載された石崎巧評だ。このとき石崎は東海大学の4年生。恩師である陸川章監督は「バスケットIQの高さ、クレバーさは当時から図抜けていた」と付け加える。「彼はすでにアンダーカテゴリーや学生の日本代表メンバーとして世界の舞台も踏んでおり、間違いなく次代のバスケット界を担う存在だったと言えます」。陸川監督の言葉どおり大学卒業後はJBL東芝ブレイブサンダースに入団、開幕戦からスターターに抜擢されると、2009年には日本フル代表にも名を連ね活躍の場を広げていった。その中でも石崎を語るうえで欠かせないのは25歳で決行した『ドイツへの挑戦』だろう。3年在籍した東芝を退社して海を渡るのには相当な覚悟も必要だったはずだ。が、当の本人は「無謀な決断だと思った人は多かったでしょうね」と笑いながら「自分としてはごくシンプルにバスケット選手としてよりステップアップしたかっただけなんですけど」と事もなげに答える。思えばこれが石崎巧。傍から見れば『すごい出来事』も彼が語ると『たいしたことがない出来事』のように聞こえるから不思議だ。だが、「それに騙されちゃいけません」と言うのは寒竹隼人(仙台89ERS)。学生時代から石崎を良く知る寒竹はこう断言する。「ザキさんの淡々とした口調はブレない芯の強さの表れ。飄々としているようで、あんなに強い人を僕は他に知りません」。
自分がやることは自分で選びたかった
福井県福井市に生まれ、小学1年生からバスケットを始めた。母がミニバスチームの監督を務め。4歳上の兄が一足先にバスケットをやっていたことを考えればごく自然の流れだったと言える。が、実は石崎にはバスケットより以前に始めたものがあった。
「ピアノですね。母がピアノ教師だったので、小学校に上がる前からあたりまえみたいに習い始めました。中学を卒業するまでですから10年ぐらいは続けたことになりますね。でも、ピアノが好きだったという記憶は全然なくて、なんていうか、基本的に自分が選んで始めたものじゃなかったから楽しいというより面倒くさかったです(笑)。考えてみたらバスケットも同じかもしれません。小学6年生のころには175cm近く身長が伸びて、全ミニ(全国ミニバスケットボール大会)でも準優勝しましたが、自分で選んで始めたわけじゃないので、それほど(バスケットに)思い入れはなかったです。それより当時は野球の方が好きで中学では野球部に入るつもりだったんですよ」