関のすごいところは、そこで「もっと上手くなるためにはアメリカに行かなきゃダメだ」という発想に至り、実際に行ってしまったことだ。そして、その行動力が関の人生に大きな影響を与え、選手としてではないバスケットとの関わり方の道標にもなるのである。
「旅行会社の方の口添えで、1992年のバルセロナオリンピックの直後くらいにロサンゼルスに行ったんです。空港から車に乗せてもらったんだけど、その車内で『今日時間あります?』って言われて、『いや、予定なんてまるっきりないです』って言ったらグレートウェスタンフォーラムに連れていかれた。チケットを貰って入ったら、まばゆいくらいに輝いてるコートがそこにあり、びっしり2万人のお客さんが入ってて、ロサンゼルス・レイカーズのゲームを見せられたわけです。ゲートをくぐってコートを俯瞰で見た瞬間にオイオイ泣けて、『俺がやりたかったのはこれだ』と思いました。これをなんとか日本でやる術はないか、あそこに立てる術はないか、それが自分が行き着きたい最終形だと思ったんですよ」
実はその前に、今の仕事につながるきっかけも生まれていた。地元・新潟に誕生したばかりのFM局の制作部長と知り合い、「おまえ良い声だな。明日暇か?」と局に呼ばれると、そのままスタジオに通され、マイクの前に座らされた。
「ヘッドホンかけろって言われて原稿1枚渡されて、何度か読んだら『はいOK』って。『OKって何だ?』と思ったら『これCMに使っていいか?』って1万円渡されて、それから頻繁に呼ばれるようになった。バブルで活況な時代だったからスポンサーもたくさんいたし、スポーツイベントも多くて、特にビーチスポーツはあらゆるところに行ってMCの仕事をやったし、局ではCM読みだけ以外に番組も預けてもらえるようになりましたね」
アパレルの仕事とFM局での仕事を並行しながら、クラブチームで練習する日々。その合間に1カ月程度の時間を作ってアメリカに飛んではNBAを観戦した。その渡米中には、新婚旅行などで訪れた日本人観光客をオプショナルツアーでNBAの試合にアテンドする仕事もこなした。
「フォーラムに連れていく道中で『今日の試合はレイカーズとサクラメント・キングスの対戦で、キングスの4番のクリス・ウェバーは有名な選手でして……』なんて説明をしてチケットを渡す、っていう1日ガイドをやってギャラが100ドル。自分もチケットを貰えるから、天国のような仕事(笑)。それを年間最大5回くらい渡航を重ねて、NBAを見まくったなあ。
自分はアイルトン・セナが好きで、いつか鈴鹿に見に行こうと思ってたら死なれちゃった。それで、やっぱり見に行くのはタイミングを逃しちゃダメだと思ったんですよ。マイケル・ジョーダンが復帰したときはもうお金の問題じゃないと思って、LAにジョーダンが来るときは全部見に行ったし、シカゴにも年に2回くらいは行って、そこに全部お金を使ってましたね」
そんな日々を過ごしていた関に、いよいよパイオニアとなる日がやってくる。現在の新潟アルビレックスBBの誕生である。ロサンゼルスで知り合っていた河内敏光から「おまえ新潟だったよな? NSGグループってあるだろ。そこの会社の資料を集められるだけ集めて送ってくれないか」という電話がかかってきた。後日その経緯を聞かされ、「社長でそっちに行くんだ。NBAみたいにしたいんだけど、あれだけ見てたからわかるだろう。喋れるし、エンタメもやってきてるんだから、全部やってくれ」とホームゲームの演出を任されることになったのである。