東芝がJBL初優勝を果たした2000年、日本のバスケット界に初めてプロクラブが誕生する。大学の2年後輩である庄司(和広)も在籍していた新潟アルビレックスとはJBLで対戦もしたが、そこから少しずつ増えていくプロクラブの存在も、北にとっては「そういうチームもあるよね」くらいの感覚でしかなかった。プロ選手や契約選手が増える中、旧来の採用形態を維持していた東芝は「新しい選手が入れば誰かが引退して社業に専念するわけで、どちらかというと “異動” という感じ」で、北自身も「ザ・企業チーム」と認めているが、その東芝が提供していた環境に不満は何一つなく、しっかり結果も残してきたのだ。
ただ、時が流れ、JBL(その後NBLに改編)とbjリーグに分かれていた国内トップリーグの事実上の統一でBリーグが誕生するとなった際は、東芝もプロ化の波に抗うわけにはいかなかった。プロ化しなければ、チームが存続できないからだ。結果的にNBL最後のシーズンを優勝で飾ることになる東芝が最上位のカテゴリー、つまりB1に参入できないとなれば、バスケット界にとっても大きな問題になっていたかもしれない。
「サッカーのコンサドーレ札幌がもともと東芝サッカー部で、それがJリーグになるときにコンサドーレになったのも知っていたので、自分たちはどうなるかと思いながら気にしていました。スポーツ推進室の方々がBリーグ参入に動いてくれていましたし、最終的に会社が参入を決めてくれて良かったと思います。一番上のリーグでできるということと、チームがなくならずに存続することになって安堵はありました」
しかしながら、ここで一安心ということにはならなかった。Bリーグの理念に基づいて地域名を冠し、東芝ブレイブサンダースから川崎ブレイブサンダースに生まれ変わったは良いものの、当の川崎市でのクラブの知名度は低く、早々にその現実を思い知らされる。
「Bリーグ初年度に、チームを認知してもらわないといけないということで、武蔵小杉駅などでチーム全員でリーグ開幕のビラ配りをしたことがあって。正直、私は身長が高い選手は目立つし外国籍選手もいたのでビラを受け取ってくれると思っていたら、ほぼ受け取ってくれなかったんです。『地域の人にこんなに知られていないんだ』と痛感しました」
事実、Bリーグ初年度はホームアリーナの川崎市とどろきアリーナも空席が目立った。チームはリーグ全体1位の勝率で中地区優勝を果たし、ファイナルまで進む強さを見せたが、ホームの観客動員数はB1の18クラブ中13位にすぎなかった。
その状況が、2シーズン目から変わり始める。観客動員数はB1で7位まで上昇し、前年からの増加率はレバンガ北海道に次ぐ2番目だった。クラブ公式YouTubeなどで発信力が高まり、クラブの持つ魅力が認知されていった結果だ。その後、日本代表の躍進などでバスケット界全体のメディア露出が増え、その流れに川崎もしっかり乗ることができている。