「そんなに深く考えてなかったし、バスケを仕事にできるのは楽しそうだなって。仕事って何でも大変じゃないですか。僕もそうだったので、ちょっと現実逃避みたいなところもあったんだろうけど(笑)、同期が頑張ってる中で『じゃあ自分も』くらいの感じです。アルビも試合したときに盛り上がってる感じがあったし」
新潟での3年間は刺激のある日々だった。資金力のある企業チームに比べると、当時唯一のプロクラブだった新潟はハード面では恵まれていなかったが、廣瀬昌也ヘッドコーチを中心に熱量が高く、バスケットに打ち込めているという充実感は大きかった。
「新潟はみんなギラギラした感じもあったし、個性の強いメンバーが揃っていたのでめちゃくちゃ楽しかった。その中で自分も必死になれましたし、プロだから大変っていう感覚は全くなくて、バスケットを一生懸命やれるのが嬉しかったですね。弱かったけど、バスケの中身の議論は廣瀬さんも含めて毎日してて、それが楽しかった。あの時代にああいう環境に来た人って、本当にバスケが好きで来たというのはあったかもしれない。初めてのプロクラブで苦労もあるけど、クラブとして見据えてるところは面白かったと思うし、そこに対して想いがあって来たという人もいたのかなと思います」
この頃には日本代表入りの目標も芽生え始めていた竹田は、新潟のbjリーグ転籍に伴い、福岡レッドファルコンズに移籍。ここでは、わずか半年でチームが消滅するという憂き目にも遭っている。その後松下電器を経て、2008年には当時創設2年目の栃木(現・宇都宮)ブレックスの一員となった。当時の栃木は選手やフロントスタッフの年齢が近かったこともあり、「新しいカルチャーを作ろうという一体感があった」と竹田は述懐する。加入2年目にはJBL優勝も経験。日本代表にも招集されるようになり、キャリアで最も充実した時期と言えるだろう。その後チームが低迷した時期も含め、栃木の土台作りに貢献した自負もある。
2013-14シーズンを最後に一度引退したのは世代交代を意識したことと、優勝以来のプレーオフ進出で節目と感じたこと、これ以上のレベルアップを望めないと感じたことが理由だった。栃木に1年残ってアンバサダーを務め、その後は「直感的に面白そうだなと思って」とWリーグ・デンソーのアシスタントコーチに就任。そして、「こんなに頑張るんだ」という女子選手を見たことが、またも竹田の心に火をつけることになる。
ACとして届いた横浜ビー・コルセアーズからのオファーに対し、自ら売り込んででも現役復帰しようと思っていた竹田は「選手でお願いします」と回答。体力的な不安はありながらも「自分が決めたことを、何の根拠もなく信じる力はあるかも(笑)」という竹田の想いが届き、横浜BCは選手として竹田の獲得を決めた。
チームとしての結果はなかなか伴わなかったが、横浜BCでプレーした5年間を「1回離れたからこそプレーすることが楽しいと思えたし、『今日はよくできた』とか『やっぱり衰えたな』とアップダウンを感じて試行錯誤する毎日が楽しかった。あれだけ負けたらそりゃ悔しいですけどね」と竹田は振り返る。「ずっとワクワクしてきた感じ」という計18シーズンの現役生活、中学時代から数えると途中の2年間を除いても28年に及ぶ競技者人生を終え、2021年、竹田は横浜BCのGMとして新たなスタートを切る。
全ての経験をプラスに変えてきた竹田謙のバスケット人生(後編)へ続く
文 吉川哲彦
写真 横浜ビー・コルセアーズ