そして、大学は全国屈指の強豪で、トップリーグに選手を数多く輩出している日本大へ。さすがにこのレベルになると体育会系の空気が強く、その環境に慣れることに苦労した。
「寮生活だったんですよ。それもバスケ部だけじゃなくて、1000人くらいいる男子の総合寮だったんです。高校の緩い感じから一気に上下関係が厳しくなって、規律も守らなきゃいけない。特に1年生のときは部屋も10人部屋で、毎日7時に掃除したり、食事当番もあったり、刑務所みたいな生活してましたよ(笑)」
ただ、その中でも山田は上を目指す意欲を見失わなかった。21歳以下の選手が出場資格を持つヤングメン世界選手権が2001年に控え、山田は大学の1年先輩でもある網野友雄らとともにその候補に入っていた。目標を目の前にして、何をしなければならないかを考えながら練習に励んだ山田は、見事にメンバー入りを果たす。努力を怠らなければ道が開けるという、その一心だった。
4年時にはインカレ優勝を果たし、大会MVPも受賞。意気揚々とトヨタ自動車に入団するが、このときのトヨタ自動車は折茂を筆頭に高橋マイケル、半田圭史、渡邉拓馬、そして網野といった日本代表クラスが居並ぶタレントチーム。そのレベルに山田は衝撃を受ける。
「日大も練習はかなりキツかったし、折茂さんは11コ上で、その上には棟方(公寿)さんもいたので、『おじさん軍団やし大丈夫やろ』と思ってたんです(笑)。でも、練習が想像したより全っ然キツくて。これがプロか、ちょっとヤバいな、ちゃんと練習しないとって思いましたね。学生ノリで行ったら出鼻をくじかれました」
当時は全日本総合選手権(天皇杯)が日本人選手のみ出場できるルールだったこともあり、山田はルーキーシーズンから一定の出場機会を確保し、リーグ優勝も経験した。そこからパナソニックを経てレラカムイ北海道に移籍した頃は、JBLもオンザコート1のルールとなり、スターターでコートに立つ機会も急増。パナソニック時代の2006年には自国開催の世界選手権にも出場を果たすなど、20代半ばのこの頃は最も充実した時期だった。
そんな山田の現役時代は、ちょうど日本バスケット界の過渡期でもあった。年齢を重ね、リンク栃木(現・宇都宮ブレックス)、広島ドラゴンフライズと移籍していく中でBリーグが誕生。急速に発展していったリーグを、山田も「やっぱりファイナルは特別ですよ。あの大きいアリーナにあれだけお客さんが集まって盛り上がる。あの雰囲気の中でプレーしたいと思いましたね」と格別の想いで見ていた。
だが、その願いは叶わず、山田は2シーズンプレーした富山グラウジーズで引退のときを迎える。富山との契約が切れ、1年限りと決めて他チームからのオファーを待ったが、その1年が過ぎて山田はけじめをつけた。
「オファーを待つ間に体は作っていましたし、いろいろ話はいただいていたんですが、いろんな事情で流れて、もういつまでも引っ張っていてもしょうがないなと思いました。ファンの皆さんに何の報告もしていなかったですし、せっかく16年も現役をやらせてもらってこのままフェイドアウトするのもどうかと思ってSNSで発表しました」