「市船での練習では5人組のラインナップが組まれて、そのメンバーが週ごとに変わるんですね。40人ぐらい部員がいたから8組ぐらいのラインナップできるわけですが、1年のころの僕の定位置はいつも一番ランクが下の8組目か、良くて7組目でした。当時の自分の実力からしたらはあたりまえです。でも、そこに定着するのはいやだった。力がないなら力をつけるしかない。それでまあ自分なりに頑張って、2年生になると徐々に上のラインナップに入れるようになったんです。で、最終的には1番上に行けました。市船に入ったころの自分を思うと、なんか嘘みたいですが(笑)。これは本当に自信になりましたね」
“ザル”と言われたディフェンスを武器に変える
拓殖大学から声がかかったのは3年の秋のこと。聞けばインターハイの視察に来ていた拓大の池内泰明監督が阿部のプレーに興味を持ってくれたらしい。拓大は関東大学リーグ1部の強豪チームであり、そこで自分がやっていけるのか不安がなかったわけではないが、「考えたら市船に入るときも同じだったじゃないかって気づいたんですね。ここでも自分が1番下ならまた頑張って上がって行こうと思いました」。そうはいうものの入ってすぐに食らったのは『自分のオフェンスが通用しない』という強力な先制パンチだ。もともと “オフェンスのチーム” という印象が強い拓殖大の中で「それまで少しは持っていた」ドライブへの自信が砕け散る音を聞いた。さあ、どうしよう。どうする、自分。「そのとき思ったのはこのチームで生き残るためにはディフェンスを頑張るしかないということです。ディフェンスが武器と言われるまで徹底的に頑張るしかないと思いました」。高校時代「おまえは本当にザルだなあ」と兄たちに笑われたディフェンスを自分の武器に変える。並大抵の努力じゃ足りないだろう。だが、必ずやってみせる。思えばこのときの決心が阿部の行く道を左右するターニングポイントだったかもしれない。
阿部が副キャプテンを任された4年次、春のトーナメントで8位に甘んじた拓殖大は秋のリーグ戦で優勝の栄冠を手にする。思い出すのは苦境には必ずハドルを組み「ここから!ここから!」と声を上げていた阿部の姿だ。「突出した選手ではない」と語った阿部の「突出した力」。市立船橋の近藤監督も拓殖大の池内監督も早くからそれを見抜いていたのではないか。7年間のコートの上には際立つ派手さはなくともチームに不可欠な選手として成長していった阿部の姿がある。
しかし、一段ハードルが上がるプロの道は厳しい。リーグ戦が終わり、季節が秋から冬に向かうころ、周りの選手たちが次々と進路を決めていく中で、阿部のもとに目指すBリーグのチームから声がかかることはなかった。
後編:島根でB1を目指すと誓った日 へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE