本場アメリカにいることで、いろんなチャンスが転がっているものだ。「ミネソタ・ティンバーウルヴスの最初のキャンプに呼ばれるかも」という話が舞い込んできた。「朝4時から準備して待っていたのですが、結局呼んでもらえず…」と今回も実現には至らなかった。アメリカでのラストチャンスはNBDL、今でいうGリーグと同等レベルに当たるリーグのベーカーズフィールド・ジャムのトライアウトを受ける。
「最終選考まで残ったのですが、『レッドシャツ(練習生)でどうだ?』と言われました。でも、さすがに貯金も使い果ててしまい、日本でプレーすることにしました」
結局、どのチームからも正規なオファーを受けることはなかった。
2000年代、アメリカに渡る選手のほとんどがガードプレーヤーだった。その中において、2m近い身長の大宮が海を渡ったことは大きな一歩であり、数々のチャンスがあったことが爪痕を残した証と言える。国内よりも希望があるという思いでアメリカへ渡ったのだろうか?
「何にも考えてなかったんですよ。とにかくジャンプ力と走力、トランジションやファンダメンタルに自信があったので、行けばなんとかなるだろうというのは正直ありました。今でこそ、NBAで活躍する日本人選手が道を切り拓いてくれていますが、当時はまだまだアジア人がダンクしただけで驚かれた時代でした。アメリカでなんとかしたいとは思っていましたが、それだけではダメでしたね」
様々な伝手を得ながら道をかき分けて行ったが、「計画性がなさすぎました」。今のように簡単に情報を得られるような時代でもなく、言葉が通じない環境によるホームシックもあった。
「本当にやりたいかと言われれば、まわりの人たちの期待に応えたいだけだったような気もします。アメリカでプレーしたいという気持ちが、途中からブレてしまいましたね」
帰国した大宮は、2006−07シーズン中の三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)に練習生として加わり、新たにはじめる長い冒険の入り口に立った。
ポジションはチームを明るく照らす『太陽』(後編)
『一生ダンクし続けるというこだわり』 へ続く
文 泉誠一
写真 B.LEAGUE