── たとえば?
今でも忘れられないのは初めてのウインターカップ前です。ベンチに入れる1年生は3人だけなんですけど、なぜか自分は大会直前に絶不調になってしまいBチームに落ちちゃったんです。それが大会の1週間前。ウインターカップは東京で開催されるし、親とか友だちも応援しに来てくれるから絶対ベンチに入りたくて、その1週間は必死でした。結果的にはぎりぎりでAチームに戻れたんですが、あのときは本当に苦しかったです。
── その後に進学した東海大では3年次にスタメン落ちする経験をされました。同じように苦しかったですか?
東海大に入ったときは目の前にテレビで見るようなすごい先輩がいっぱいいて、その中で自分はスポンジになっていろんなことを吸収しようと思ってました。自分なりに頑張ってスタメンでも使ってもらえるようになったんですが、3年になったとき大倉颯太とか八村阿蓮とか力のある1年生たちがドーンと入ってきたんです。それでスタメン落ちしたメンバーの中に僕もいました。悔しかったか?と聞かれたら、そりゃ悔しかったですけど、苦しかったというのとは違います。スタメン落ちしたからって腐る人はだれ1人いなくて、逆にセカンドメンバーとしてのプライドを持って、スタメンと試合をするときは絶対勝ってやる!と思って戦っていました。
みんなのベクトルが同じ方を向いていた気がします。おかげですごくいい練習ができていて、インカレ優勝という結果を残すこともできて、チームというのはスタメンとかセカンドとか関係なく、それぞれが自分の役割にプライドを持ってやり遂げることで強くなれるんだと実感できたシーズンでした。ただ、自分が4年になってキャプテンを任されたとき、(チームを)そこまで高めることができなかった。どこかに甘さがあったんだと思います。自分の大学4年間に悔いが残るとしたらそのことですね。
── インカレ終了後の12月、京都ハンナリーズへの加入が発表されました。京都に入るきっかけとなったのはどんなことですか?
実はその前に教育実習で洛南に行っていたとき、空いている時間を利用して練習に参加させてもらっていたんです。当時のヘッドコーチの浜口炎さん(現富山グラウジーズヘッドコーチ)から指導を受けて、アドバイスもたくさんもらいました。プロを目指す自分にとって京都は入りたいと思っていたチームの1つだったので、お話をいただいたときはめちゃくちゃうれしかったです。
── いつごろからプロになりたいと考えていたのですか?
中学のころから考えていましたね、東京の実家は有明コロシアムにすごく近くて、当時有明をホームにしていたbjリーグの東京アパッチの試合は必ず観に行ってました。青木康平さんとか、城宝匡史さん(富山グラウジーズ)とかほんとにカッコよくて、当時の僕のあこがれの選手でした。その城宝さんと今シーズンの開幕戦で戦ったんですよ。ずっとあこがれていた選手とプロとして同じコートに立てる日が来るなんて…。ちょっと感動しましたね。中学生の自分に教えてやりたくなりました(笑)
“新生京都” の副キャプテンは23歳の負けず嫌い(後編)へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE
画像 バスケットボールスピリッツ