14年目にしてはじめて経験した移籍であり、「本来であれば最初に相談するのは妻なんですが、なぜか圭さんに電話しちゃっていました」と奇妙な行動を取ってしまう。最初に誘った五十嵐にいの一番に連絡したが、電話の向こうの当人は「まさか来るとは思ってなかったらしく、驚いていました。本気で来て欲しいとは思っていたけど13年間在籍し、子供たちもそこで育って学校のこともあるから、移籍は無いと思っていた」と言われたそうだ。盟友、五十嵐圭とはどんな存在か?
「昔から何ひとつ変わっていないです。本当に人間くさいというか、男くさい。あまり感情を表現するタイプでもないし、常にクールでシャイなイメージですが、すごく情を大切にする人です。だから、圭さんに付いて新潟に移籍してきて良かったと思っています。僕が契約満了になってからも、毎日のように心配して連絡をくれました。それは柏木も同じで、同世代の二人は親身になって心配してくれました。シャンソンに決まったときもすごく喜んでくれました。最後の記者会見に圭さんが来ていることは全く知りませんでした。花束贈呈のサプライズゲストで登場した圭さんの方を見たら、もう目が真っ赤になってました。それを見たらダメだ、と思ってもうそこから顔を見ることはできなかったですね」
現役続行とともに指導者への道も模索していた鵜澤は、シャンソン化粧品シャンソンVマジックのアシスタントコーチとなり、セカンドキャリアをスタートさせた。
恩師への感謝の言葉、Bリーグの後輩たちへメッセージ
中学1年からバスケと出会った鵜澤は、多くの指導者から薫陶を受けてきた。思い出深いコーチを聞けば、最初にバスケを教えてくれた中学時代の恩師の名を挙げた。
「僕のバスケ人生の一番の指導者は、中学時代の山崎先生ですね。バスケ経験者ではなかったです。あくまで予想ですが、技術的な部分は一生懸命に教材を読みながら教えてくれていたと思います。でも、バスケ以上に一人の人間としてどうあるべきかをすごく教えてくれたという記憶が残っています。僕が地元では背が大きくて、バスケができると天狗になりかけたときは、見事にその鼻をへし折ってくれました。それは本当に感謝しています。山崎先生が、千葉県のジュニアオールスターの選考会に行ってみればと背中を押してくれました。あの言葉がなければ、市船への道もなかったです。中学校の先生がきっかけで、ここまで切り拓くことができました」
今度は鵜澤自身が恩師たちのように、若い選手たちを導く立場となる。シャンソンの李玉慈(イ・オクチャ)ヘッドコーチからも、「これまで学んできた経験を伝えて欲しい」と期待されている。自ら体得してきた技術はもちろんだが、恩師たちから授かった言葉なども継承していってもらいたい。