青学大卒業後は西の名門、大阪のパナソニックトライアンズに入団。当時のチームには永山誠、青野文彦、大西崇範、木下博之など有力な先輩たちが揃っており、その中で揉まれながらステップアップすることでその年のJBLルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝いた。「いやあ、あいつはほんとによく走っていましたね」と、振り返るのは当時のパナソニックの監督・清水良規だ。「練習ではいつも木下と競うように走っていました。試合では時々びっくりするようなポカもするんですけど、それを補って余りあるものがあった。あいつはここぞ!という場面で必ず走ってくれる。絶対さぼらないんですよ。練習でもとにかくまじめにバスケに取り組む選手。いろんな意味でチームに活力をもたらしてくれた選手です。当時を思い出すと、浮かんでくるのは全力でコートを走る姿ですね」
日本のバスケット界を担う若手選手として初めて日本代表メンバーに選出されたのは2009年。2016年にはリオデジャネイロ・オリンピックの世界最終予選を戦うメンバーとして世界の舞台も踏んだ。大学時代から広瀬を見てきた岡田はこうも語っている。「正直、下級生のころはトップ・オブ・ザ・トップまで行ける選手だとは思っていませんでした。だけど、その後の活躍、日本代表もそうだし今も第一戦でプレーしていることもそうだし、そういう姿を見ると、僕が大学時代に見てきた健太を思い出すんですね。あのころの努力をあいつはずっと変わることなく続けてきたんだなと。努力は嘘をつかないんだなと思います」
しかし、当然のごとくすべてが順風満帆だったわけではない。所属していたパナソニックトライアンズは2012-13シーズンをもって休部、気持ち新たに移籍したサンロッカーズ渋谷(当時日立サンロッカーズ)ではいきなり18勝36敗の泥沼のシーズンを経験した。翌年には勝ち星を大幅に伸ばし(45勝9敗)イースタンカンファレンス1位に躍り出ると、天皇杯では悲願の初優勝を飾ったが、チームはそれ以降優勝から遠ざかる。元NBAプレーヤーのロバート・サクレを獲得して話題を呼んだBリーグ元年には中地区3位でチャンピオンシップに進出するもクォーターファイナルであえなく敗退。キャプテンを務めた翌シーズンは激戦の東地区で5位に終わり、今年こそと意気込んだ2018-19シーズンもチャンピオンシップ進出は叶わなかった。
チームの浮沈がかかる終盤にケガで離脱したことは、とりわけ大きな無念を自身の中に残したのではなかろうか。しかし、この7年、下を向かずバスケットに取り組んできた自負はある。「この悔しさは必ず来シーズンに晴らしてみせる」と誓ったのは苦しいリハビリの最中だったかもしれない。開幕戦に間に合うかどうか、どこまでチームに貢献できるか、続く道の先はわからなかったが、「それを含めてというか、それだからこそというか、自分にとってチャレンジの年になると思いました」。人生初の大ケガを乗り越え、必ずコートに戻る、復活してみせる。それは広瀬が自分自身に課した“34歳のチャレンジ”だった。
part3「オフコートで見せる意外な素顔」へ続く
文 松原貴実
写真 B.LEAGUE
画像 バスケットボールスピリッツ編集部