part1「初のポイントガード対決はインターハイ」より続く
先輩から学んだものの上に自分のスタイルを構築する
── お2人が一緒にプレーした中央大学時代のことを振り返っていただけますか?
五十嵐 僕は1年のころはベンチにも入れなかったし、試合にもほとんど出ていません。そこにアンダーカテゴリーの代表として実績もある真介が入ってきたことで「俺、このまま試合に出られなくなるんじゃないかな」と不安を感じたのを覚えています。なんせインターハイでも負けていますし(笑)
柏木 でも、すぐ2人でコートに出ることになりました。出るときはほぼ2人一緒。基本圭さんが1番、僕が2番をやっていましたけど、すごくやりやすかったですね。
五十嵐 僕もすごくやりやすかった。勝利の方程式じゃないですけど、こういうディフェンスをしたらたぶんオフェンスが攻めあぐむから、ここでロールしたらそこでカットだなみたいな感じでやっていてすごくおもしろかったです。
柏木 2人が出ると流れが速くなるというか。
五十嵐 真介はディフェンスを得意としていたので、前からプレッシャーをかけて相手があたふたしているところを狙ってボールを奪い、僕がパーッと走ってレイアップにいくみたいな。スピードを意識し始めたころだったので、ボールをもらったらとりあえずレイアップに行ってました。大学時代はほとんど3ポイントシュートを打ってないんですよ。
柏木 圭さんが3年、僕が2年の年は優勝こそできませんでしたが、春のトーナメント、秋のリーグ戦、冬のインカレ、すべて準優勝でした。
── お2人が日本代表メンバーに選ばれたのも同じ時期でしたね。一足先に五十嵐さん、そのあとに柏木さんという感じだったでしょうか。
五十嵐 そうですね。正確に言うと僕が代表入りしたのは2003年の秋です。代表活動は4月から始まっていたんですが、そのとき僕はユニバ(ユニバーシアード大会)の代表に選ばれていました。日本代表のポイントガードは節政(貴弘)さんと柏倉(秀徳)だったんですが、ちょうどユニバが終わったタイミングで節政さんが足首の手術をすることになりユニバメンバーから1人上げることになったみたいなんですね。それで僕が呼ばれたわけです。
── ジェリコ(パブリセヴィッチ)ジャパンの1年目ですね。
五十嵐 そうです。途中からの参加だったのでほぼ試合には絡まないだろうなと思っていたんですが、アテネオリンピックのアジア予選のとき、ポイントガードをやっていた(渡邉)拓馬さんが初戦でケガをして、交代した柏倉が残り何分かで5ファウル退場となり、急遽出番が回ってきました。フィリピン戦だったかな。それが僕の代表デビュー戦です。
柏木 僕が代表入りしたのは大学を卒業する直前でした。スプリングキャンプに参加していたのですが、そこから3人ぐらいA代表に連れていくと言われていて、僕と大宮宏正(千葉ジェッツ)と桜井良太(レバンガ北海道)が上げてもらったんです。