part1より続く
小林慎太郎の熱さを語るうえで両親の存在は欠かせない。
父親は小林が中学3年生のときに亡くなり、以来、母親に女手一つで育ててきてもらったが、生前の父からも、その後の母からも「人様のおかげ。人様あっての自分。感謝の心」と常日頃から言われてきた。どれだけ活躍しようが、ワンランク上のステージに立とうが、すべては人様のおかげ。「頭を下げることを忘れてはあかんで」。そう言われてきた。その言葉が小林の原点にある。
その一方でこうも言われてきた。
「やるからには一番を目指せ」
小林が今なお日本一を公言しているのはそこに由来する。その言葉こそが小林を突き動かす原動力になっているのだ。
「僕が熱くなるのも、幼いころからバスケットで日本一になることを夢見て、そんな僕を親父もサポートしてくれていたので、死ぬ間際に『バスケットで日本一になる』という約束をしたからなんです。それが僕を突き動かしています。どんなときでも……実はヒザの靭帯を切ったのは2回目なんですけど、2回切ってもあきらめないのは、そのときの約束があるからかなと。バスケットだけは譲っちゃいけない、もちろん引退するときは来るんですけど、簡単にバスケットボールという競技だけは譲ってはいけないなと。それが熱いものを持たせてくれる要因なんだと思っています」
三つ子の魂百まで、である。
両親には「中途半端はダメ。同じ失敗はするな」とも言われていたため「(大学4年のときに)右ヒザの前十字靭帯を切ったので、じゃ、今回は左だと。これで中途半端じゃなくなって、バランスも取れたと思っています。バランスが取れたところで、今年も日本一を目指しますよ」と小林は笑う。
もちろんケガをしたときは苦しんだし、リハビリを投げ出したくなったこともあった。しかし復帰した今、こうして笑えるのもやはりご両親の存在と、その教えがあったからだ。
ご両親だけではない。
宮崎県立小林高校の森億ヘッドコーチ(当時)には高い目標設定の仕方を3年間かけてみっちりと教わり、『スラムダンク勝利学』で知られる辻秀一氏の講習会を何度も聴講させてもらった。
東海大学では、陸川章ヘッドコーチの下で学んだ。
パナソニック・トライアンズのヘッドコーチは清水良規(現・小豆島ストーンズ・チームアドバイザー)だ。
「やばいでしょ? もう熱くならないわけがないでしょう(笑)?」
両親に熱く育てられた小林は、熱が熱を呼ぶかのように、より熱い男たちの下で、その熱をさらに帯びていったのだ。
だからといって、熱ければいいというものでもない。若いころはそれがわからなかった。ただがむしゃらに、ただひたすらに熱く前に進むことだけを考えていた。だから失敗も多かった。そうした若すぎるがゆえの心を、いわゆる「大人の心」にさせてくれたのがパナソニックというチームだった。小林はそこで日本一も経験している。