── 中学3年のときには北海道のジュニアオールスターの候補選手になったと聞きました。
はい、結局最後は落ちちゃったんですけど。今はどうか知りませんが、当時は1次から3次まで合宿があって、そのたびにふるい落とされていくんですね。僕は3次まで残ったんですが最後に落とされました。ただそのとき東海大四高(現東海大付属札幌高校)の佐々木先生(睦巳監督)が僕のプレーを見てくれて…。
── 「うちに来ないか」という話になったんですね。
というオファーがあるという話は聞いていたんですが、それがなかなか来なくて…。そのころ旭川の高校から話をもらっていたのでそっちに行こうと決めかけたとき、佐々木先生が来てくださったんです。そんなわけで一度は旭川の高校に進むことを考えていたんですが、僕は中学まで弱いチームにいたので、やっぱりチャンスがあるなら強い高校に進みたいと思いました。全国大会に行ってみたかったんです。自分が出る出ないに関わらず全国の舞台を見てみたいという気持ちが強かったですね。
── それで初めて名寄を離れることになったわけですね。
そうです。実家を出て寮に入りました。その年は全中(全国中学生大会)で3位になった中学の主力が全員入ってきて、自分としてはいきなり練習のレベルが上がった感じでした。その中でなかなか力が発揮できず、1年のころはシュートもあまり打ってなかったです。中学時代もそうですが、高校でもずっとセンターをやっていて外より中で勝負するというか、外から点取るヤツは他にもたくさんいたので、自分は自分のできることをやろうと、そんな感じでした。
── ではシュートを自分の武器にしようと考えたのは東海大学に入ってからですか?
そうですね。でも、それも最初は東海大ではなく、他に行きたい大学があったんです。まあいろいろあって、系列の東海大に進むことになりました。同期には前村雄大(トライフープ岡山)、古川孝敏(秋田ノーザンハピネッツ)、石井講祐(サンロッカーズ渋谷)、嶋田基志(香川ファイブアローズ)なんかがいましたが、みんなすごい強豪校から来たわけじゃなくて、そのとき僕が名前を聞いたことがあったのは嶋田ぐらいでしたね。この4人がAチームで、僕は最初からBチームでした。4年になるまでずっとBチームです。BチームはAとは練習も別ですし、コーチも学生です。僕らの学年はAもBも関係なく仲が良かったですが、やっぱりやる以上はAに上がりたい。自分の武器とするものを考えとき、それが3Pシュートだったんですね。Bチームの試合では平均20点ぐらい取っていたと思います。