「僕も新潟出身ですが、彼の場合はbjリーグ時代からずっとチームを支えてきた選手。まさに“新潟の顔”と言える存在だと思います」 ── そう語る五十嵐圭の視線の先には池田雄一がいた。新潟アルビレックスBBに在籍して13年。黙々とシュート練習に励む姿は36歳になった今も変わることはない。
厳しい環境で取り組むバスケットは新鮮で楽しかった。
── 池田さんは新潟県燕市で生まれて、中学からバスケットを始めたとお聞きしています。
はい、そうです。バスケットは小学生のときから好きだったんですが、地元にミニバスのチームがなくて、ちゃんと部活として始めたのは中学のときからです。チームとしてはあんまり強くなくて県大会にも出たことはないんですが。
── でも、県下の名門、新潟商業高校から声がかかったわけですよね。
それは僕の背が高かったからじゃないですかね。中学のときに1番伸びて中3で185cmぐらいありましたから、その高さを見込まれたんだと思います。当時の自分の実力を思ったらほかの理由は考えられません(笑)
── それほど実力はなかったと?
全然なかったです。入ったころは先生が言うバスケット用語もほとんどわからなくて「ディナイドリル」とか言われると「えっ、地内鶏?比内鶏?それなに?」って思うぐらいのレベルで(笑)。いや、ほんとの話です。毎日先輩に教えてもらって練習するんですが、みんな心の中で「こいつ、大丈夫かなあ」と思っていたでしょうね。
── 自分だけ練習についていけないことは辛くなかったですか?
辛い?うーん、辛くはなかったですね。そりぁ練習はハードだったし、新商でバスケを始めたことで生活が一変していろいろ大変なことはありましたよ。たとえば僕は自宅から電車通学していたんですが、朝練があるので朝6時10分の電車に乗って、部活が終わった夜は22時30分の電車で帰る。家に帰るとご飯食べて、風呂に入って、寝るだけの毎日でした。だけど、それを辛いとは思わなかったですね。僕はそれまでそんな厳しい環境の中でバスケットに取り組んだことがなかったので、逆に(そういう毎日が)すごく新鮮というか、むしろ楽しいと感じてました。
── 厳しい練習が新鮮だった?
そうです。新鮮で楽しかったです。おかしいですか?(笑)
── いえ、ポジティブでいいなあと思います(笑)。そんな中で試合に出られるようになったのはいつごろですか?
2年生になってからですね。チームの中ではまあ大きい方だったのでセンターポジションを任されていました。今と違って当時のセンターは「外からは打つな」と言われていて、僕も外角シュートはまったく打たなかったです。たまに打ってもせいぜいハイポストぐらいから。だから3ポイントシュートの練習なんかは全然したことがなかったですね。自分でもインサイドのプレーが好きだったし、シュートを打ちたいとも思ってなかった。国体が終わったころに「打ってもいい」と許可が出て、打ってみたけど全然入りませんでした(笑)
── 東海大に進もうと思ったきっかけは?
リクさん(東海大・陸川章監督)の情熱ですね。僕は大学のバスケットのことは何も知らなくて、東海大がどんなチームなのかビデオを見たこともなかったんですが、リクさんがわざわざ新潟まで来てすごく熱心に誘ってくださったんです。あんな熱い人を見たのは初めてで(笑)、東海大のバスケは知らないけどこの人の下でやってみたいという気持ちになったんです。