新加入する選手とは思えない強気な宣言。結果、平日のチーム練習に参加するのは、田中が勧誘した選手を含めてたった3人だった。
「一応選手登録していたのは10人ぐらいだったんですが、実質練習に来るのは3人でずーっとスリーメンの練習ばっかりしてました(笑)。でも、まだ3人集まるときはいいんです。仕事の都合で来られない選手がいると、せっかく体育館を借りたのに自分1人しかいないというときもある。岐阜の冬はすごく寒くて、夜の体育館はめちゃめちゃ冷え込むんですよ。そこにポツンと1人でいると、やっぱり心が折れそうになります。けど、厳しいことを言っている自分にはそれだけ責任があるわけで簡単に妥協はできません。当時心に決めていたのは、とにかくストイックにバスケに取り組もうということ。弱音を吐かず、誰よりも努力すればきっとみんなもついてきてくれるはずだと自分に言い聞かせていました。今、思っても自分をそこまで突き動かしていたのは『バスケが好きだ』という気持ちだけだったような気がします。それ以外にはない。それに尽きると思いますね」
そんな田中の情熱は次第にチームを変えていく。練習に集まるメンバーはスタート時の3人から翌年6人になり、8人になり、夜の体育館に響く声にも活気が出てきた。もちろんすべてが順風満帆だったわけではなく、ハードな練習を重ねながら東海大会で勝てなかった時期には「こんな苦しい練習をしているのに東海でも勝てないなら、日本一になれるわけがない」と、辞めていく選手もいたという。それでも田中は「日本のクラブチームで一番になる」という当初の目標を貫くことを辞めなかった。教員をしているメンバーに頼んで部活が終わったあとの高校や中学の体育館を借りて練習。借りられない日は外での走り込み。「みんな仕事を持っているし、(バスケットで)お金をもらっているわけではないので、試合に勝てないとやはり士気も下がります。でも、これは過程であり、いつか必ず自分たちは日本一になるんだと、そういう志を持つこと、それを共有することが1番大変なことでした」。
その努力が最初の形となったのは2010年の東海クラブ選手権大会優勝。さらに2012年には地元で開催されたぎふ清流国体成年男子の部で優勝、同年に悲願とも言える全日本クラブ選手権優勝も成し遂げた。
「クラブ設立から10年かかりました。それが長かったのか短かったのかはわかりませんが、とにかく僕らはあきらめなかった。メンバーを集めるとき、僕が重視したのはバスケの技術よりバスケに取り組む姿勢です。日本一を勝ち取ったメンバーはそれぞれ大事な人生の時間を削ってバスケに向き合ってきた者ばかり。そんな仲間たちと日本一になれたことは誇りであり、本当に嬉しかったです」
しかし、スゥープスにとってそれが“ゴール”ではなかった。2016年、新たに発足したBリーグは日本のバスケットボール界を大きく変えると同時にスゥープスにも変革をもたらす。岐阜の子どもたちが誇れるようなプロバスケットボールを作ろう。2017年、B3リーグへの参画を決めたスゥープスはアマチュアチームからプロクラブへと大きく舵を切ることになる。
part2「田中昌寛選手インタビュー(2)志を高く、バスケットに取り組む姿勢はどこにも負けない」へ続く
文 松原貴実
写真 安井麻実