「一見やさしいように見えるじゃないですか。ところが裏ではめちゃめちゃ番長気質なんですよ」。「そうそう、ああ見えて結構暴力的なんですよね」
練習を終えた体育館で田渡修人と川嶋勇人がそう語る。「太田敦也はどんな先輩?」の問いに返ってきた言葉だ。近くに座った当の本人は何も言わず終始笑顔。その太田を見て、川嶋が「しょうがねぇなあ」という表情で続けた。「いや、ほんとのこと言っちゃうと、今、俺らが言ったことの真逆の人がアツさん(太田の呼び名)。もう見たまんま。めちゃくちゃやさしい人です。日本を代表するインサイドの選手なのに僕たち下っ端にすげー気持ちよくバスケをさせてくれようとする。文字通りチームの大黒柱ですね」。隣りの田渡が思わずうなずく。「スクリーンにしろ、ディフェンスにしろ常に体を張って、僕たちがやりやすいように支えてくれるんです。チームのためにあれだけ自分を犠牲にできる人を僕は他に知りません」
柔道少年からバスケ少年へ。太田を転身させた二つの“運命”
太田敦也は三遠ネオフェニックスの本拠地と同じ愛知県豊川市で生まれた。子どものころから図抜けて背が高く、無意識に背中を丸めてしまうため「小学1年生から柔道を始めました。柔道は正座して背筋を伸ばすから姿勢が良くなるんじゃないかと親が考えたみたいです。小1から小6まで隣町の道場に1人で通いました。強かったかどうかはよく覚えてないんですが、柔道は好きでしたね。中学でも柔道部に入って続けようと決めてたぐらいです」
ところが、入学後に聞かされたのは「柔道部は去年を最後に廃部になりました」という話。「ええーっそうなのー?って感じで(笑)。じゃあバスケット部に入るかと。バスケは小学校の部活で4年生のときからちょっとやっていたし、このデカい体を生かせるかなと思いました。それにしても自分に合わせるみたいに柔道部が潰れちゃうというのは、なんですかねぇ。運命だったのかもしれないですねぇ(笑)」
小学校の卒業記念に測った身長は179cm。それから1ヶ月も経たたない中学入学時に測った身長は181cm。以後は1年で10cmぐらいずつ伸び、中学3年の身体測定では200cmを超えていた。「身長測定の台は2mまでしか測れなかったので、それに定規を継ぎ足して、はい、2m2cm!みたいな(笑)。もちろん目立ちましたよ。どこにいようとすぐわかるので悪いことはできません。おかげで、おかげで…って言うのも変ですけど、教室でも部活でも、まあまじめな生徒だったんじゃないでしょうか(笑)」
入ろうと思っていた柔道部が廃部になっていたのが“運命”ならば、太田にもう1つ大きな“運命の日”が訪れたのは中学3年の春だった。
「授業中にいきなり校内放送で『3年生の太田敦也君、今すぐ校長室まで来てください』って呼び出されたんです。何事かと思いますよね。怒られるようなことをした覚えはまったくないのに、周りからは『おまえ、なにやったんだよ?』って言われるし、なんだろう、なんで呼び出されたんだろうとドキドキしながら校長室に行きました」