中学に入っても身長は伸び続け、3年次は198cmになっていた。ジュニアオールスターのメンバーにも選出され、“未来のホープ”として地元のテレビ番組に取り上げられたこともある。当然、県外の強豪高校からも誘いの声があったが、選んだのは地元の宇都宮工業高校だった。
「ジュニアオールスターでプレーしたメンバーの多くが宇工(宇都宮工業高校)に進む話を聞いて、自分もまたいっしょにやりたいなあと思ったんです。将来のこととかはまだそれほど考えてなかったですね。ただテレビに出たとき、将来のことを聞かれて『栃木ブレックスでプレーするのが夢です』って答えたんです。正直に言うと、そのことはよく覚えてないんですけど、確認すると間違いなくそう言ってる(笑)。なんですかね。普段はあまり意識してなくても心の奥にやっぱりそういう願望があったのかもしれません」
だが、口にした『夢』は当時の橋本にとって現実味を持たないものだった。ジュニアオールスターに選ばれようと、県外の高校から誘いがあろうと、「バスケット選手としての自分に自信を持っていなかった」と言う。
「高校に入っても、ただデカいだけでなんにもできないような選手でした。1年のころは、工業高校で身に付けた技術を生かして就職しようと考えていたぐらいです。だからアンダーカテゴリーの代表に選んでもらったときはほんとにびっくりしました。だれよりも自分自身が1番びっくりしたと思います」
U16、U18の代表選手として出場したFIBAアジア選手権大会、さらに3年次に日本代表メンバーとして出場したウィリアム・ジョーンズカップ。「日本では下手なりに身長を生かして通用していた自分のプレーが通用しない。それはやっぱり衝撃でしたね。ああもっとうまくなりたいと思いました」それは遅まきながら橋本の中に芽生えた初めての“欲”だったかもしれない。
意識を変えたという意味では、3年生のときの秋田でのインターハイも忘れられない大会だ。宇都宮工業はベスト4を賭けて京都の名門・洛南と対戦した。
「洛南は全国でも有名な強豪校だし、うちが負けると思っていた人の方が多かったと思います。実際僕らは残り0.4秒まで負けていました。けど、その残り0.4秒、僕が打った3ポイントシュートが決まって、最後の最後で逆転勝ちしたんです。そりゃもうめちゃくちゃ嬉しかったですよ。こんな片田舎のチームだってあきらめなければ名門チームを破ることができるんだな。最後まであきらめなければ何が起こるかわからないんだな。それがバスケットなんだなって。うまく言えないけど、そういうのを全部実感できたというか、とにかく自分にとってはものすごく大きな勝利でした。あの試合はきっと一生忘れないと思います」
part2に続く
【ケガに泣いた大学時代「それでも得たものはたくさんありました」】
文 松原貴実
写真 安井麻実