どんな場面でも顔色一つ変えず、淡々とプレーしていた男は、この日も「緊張は特にないですね。あまり構えてなかったですし、素のままでいかせていただきました」と現役時代と変わらぬポーカーフェイスでコートに立った。以前と違ったのは、ユニフォームを着ていなかったことだけだ。3月29日、クラブ初の永久欠番を祝うセレモニーの主役として、池田雄一はアオーレ長岡に姿を現した。

1983年生まれの池田がバスケットと出会ったのは小学生の頃。1990年代、その間に6度の優勝を成し遂げたマイケル・ジョーダンの存在や、そのジョーダンも一員となったドリームチーム(バルセロナオリンピックのアメリカ代表)の登場により、NBA人気は日本でも高かった。池田も、ジョーダンのプレーに触発された1人だった。
「マイケル・ジョーダンに憧れて、友達同士で遊びで始めたというのが出会いです。中学にバスケット部があれば入ると決めてて、それ以外の選択肢は特に考えてなかった。自然とバスケット部を選びました」
高校は新潟商業高に進学。1年時のインターハイ優勝はベンチ入りしていないものの、その後は全国大会を経験し、3年時にはキャプテンを務めている。その間に新潟アルビレックスBBが日本初のプロバスケットボールクラブとして誕生しているが、当時の日本バスケット界は認知度が決して高くなく、若い世代が選手としての未来を思い描くのが難しい時代。「新潟商業が招待されて何試合か見させてもらって、すごく派手な世界で華々しいなというのは記憶に残っている」という池田も、「将来このチームに入りたいというのはなかった」ということだ。
それは、東海大に進んでも変わることはなかった。今でこそ東海大は多数のBリーガーを輩出する名門だが、当時は関東学生リーグ2部の中位。池田が東海大への進学を決めたのも、同じ新潟県出身の陸川章監督(当時)の熱意を受けてのものだった。トップリーグであるJBLスーパーリーグは、大卒ルーキーが毎年10人いるかいないかという狭き門。練習試合で対戦することも多かったものの、簡単に行ける世界ではないと思っていた池田は現実路線で高校の教員を目指し、教員免許も取得していた。
その風向きが変わったのは4年生のときだった。新潟の主導でbjリーグが誕生し、バスケットボール選手にとっての受け皿が増えたことも大きな要因だったが、決定打となったのは、大学生活最後のインカレで脚を骨折して決勝戦に出場できなかったことだ。チームが初優勝を飾った中、池田個人は不完全燃焼。まだバスケットを続けたいという欲が出てきたのだ。

「終わり方がすごくモヤモヤする形だったので、いくつか声をかけていただいた中でリクさん(陸川監督)にも相談して、プロに舵を切らせてもらいました。メインで試合に使ってもらってたので、怪我せずにコートに立って優勝してたら進路も違ったのかなと思います」
プロキャリアはその怪我のリハビリから始まった。「手術する時間もなかったので、手術ありきで新潟に入ったんです。1回目の手術はプラン通りだったんですけど、自分も若かったので焦りもあって、練習強度を上げすぎて逆の脚の疲労骨折で2回目の手術。ルーキーイヤーはほぼリハビリで、かなり出遅れてしまいましたね」と当初の想定以上に難しい船出となってしまったが、2シーズン目からは一転、347試合連続先発出場という偉業を成し遂げている。足かけ7年にわたるこの大記録について、本人は今もなお「なんかそんなこともありましたね」と気に留めていないが、日本におけるプロバスケットボール選手の先駆けである長谷川誠の存在が関わっていることには、感謝の気持ちが強い。











