「自分がなりたい自分になる」── 石崎巧という生き方(1) より続く
だれもが一目置く『変なヤツ』
東海大学の陸川章監督は石崎巧の名を聞くと必ず浮かんでくる “絵” があるという。「顎に手を当てて、ちょっと遠くを見ているような横顔ですね。おそらく何かを考えるときのあいつの癖なんでしょう。練習でも試合でもあいつが顎に手を当てると、ああまた何かを考えてるなというのがわかりました」。北陸高校時代から石崎のプレーを見続けてきた陸川監督には「大学でポイントガードに育てたい」という思いがあった。「常にコート全体を見て賢いプレーを選択できること。どんな局面でも冷静に対応できること。彼にはポイントガードとしての資質が備わっていました。加えて188cmの身長がある。彼がポイントガードとして育ってくれれば間違いなく日本のバスケット界のプラスになるはずだと思いました」。しかし、何事も一朝一夕に成し遂げられるわけではない。「石崎だって同じですよ。最初のころはいくつターンオーバーを犯したかわからない。とにかく試合のたびにターンオーバーです。だけど、あいつはめげなかった。その都度自分の課題に向き合って、顎に手を当ててね、自分の頭で考えて成長していきました。見事だったと思います」
そんな石崎を周りの選手たちはどう見ていたのか?当時ライバルと言われた青山学院大学の正中岳城はこんなふうに振り返る。「あのクセ者揃いのメンバーを束ねてインターハイで北陸を優勝させた石崎のことはもちろん知っていました。最初に対戦したのは大学1年の新人戦だったと思います。第1印象は『こいつ落ち着いてるなあ』でしたね。ポイントガードとして単にサイズがあるというのではなく、選手としてのスケールの大きさ、存在感の大きさを感じました」。正中は3年次のインカレで東海大学と頂点を争ったが、「ガードがチームを勝たせるという意味でも(石崎の方が)確実に力は上。当時の自分の気持ちは、ライバルというより『ライバルと見なされるぐらいになりたい』だったと思います」。そして、そんな思いを抱いていたのは「決して自分だけではなかったはず」と言う。「おそらく僕らの年代の選手の中には大なり小なり『石崎に認められたい』という思いがあったんじゃないでしょうか。当時の石崎はそれぐらい自他ともに厳しく、近寄りがたいオーラを出していましたから」
浮かんでくるのは『ストイックにわが道を行く』イメージ。2年次に東海大学を1部リーグに昇格させ、3年、4年とインカレ連覇を果たしたというのに「自分の目標はもう次に向かっていたので、ものすごくうれしいとか、やったぜ!みたいな気持ちはそれほどなかったです」などという言葉を聞くと、ますますその感が強まる。と同時にこんな感想が沸くのも否定できない。「なんか可愛げがないじゃないか」──。しかし、正中に言わせれば「そういうことをあっさり口にしてしまうところが石崎」なのであり、「そこだけ切り取ると不遜な男のように見えますが、実際は違う」らしい。「自分の主義主張はあるにせよ、それに凝り固まっているわけではなく、むしろ進んでトライ&エラーを繰り返すみたいなところがありました。ひと言で言えば『変なヤツ』。僕が知るバスケット選手の中でもダントツに『変なヤツ』だと言えます(笑)。それでもみんなが一目置いていたのはもちろん選手としての能力もあるでしょうが、バスケットを自分の頭で考え、やり通す強さみたいなものを感じていたからだ思います。周りに与える影響が大きい選手でした」
バスケットの形は多様で、深く、おもしろい
ならば、石崎自身はこの時期の自分をどうとらえているのだろう。
「やっぱり大学時代の自分は若かったなあと思います。世間知らずで青かったなあと(笑)。チームの中でも言いたいことはズバズバ言ってたし、迷惑かけることも多かったですね」
ただしバスケットに対しては自分なりにまっすぐ向き合ってきた自負はある。本人が「自分の転機となった出来事」として挙げたのは、2度にわたり出場したユニバーシアード大会だ。そこで目にしたのは想像以上に多種多彩な世界のバスケット。「勝利へのプロセスはこんなにも多様なのだと知ったとき、バスケットは深いなあと思いました」。深いからこそおもしろい。おもしろいからこそ極めてみたい。自分の中で何かのスイッチがカチッと鳴るのを聞いたような気がした。