信州ブレイブウォリアーズは2018-19シーズンにB2優勝を果たしたもののクラブ運営の問題から1部昇格が見送られた。が、その無念の思いを乗り越え、次シーズンも快進撃を続ける。コロナ禍で途中終了となった時点で奪った白星は40。B2中地区優勝が決定し、悲願の1部昇格の夢を叶えた。
長野で生まれ育った生粋の長野っ子である三ツ井利也は特別指定選手の期間から数えて今年で5シーズン目を迎える。チームの成長過程を知る者として、また、唯一の地元選手としてB1の舞台に懸ける思いは人一倍強いはず。ひときわ大きい郷土の声援を受けながら「たくましい挑戦者になりたい」と力強く語った。
「大学4年までプロか実業団か進路を迷っていました」
── まずは簡単にバスケット選手としての経歴を聞かせてください。バスケットを始めたのは何歳のときですか?
小学4年生だから10歳かな。僕は長男の末っ子で、5歳と3歳上に姉がいるんですが、3歳上の姉がドッジボールをやっていて僕も小3まではドッジボール部に入っていました。でも、なんか違うスポーツをやってみたいなあと思うようになって、友だちに誘われたのをきっかけにバスケクラブに入ったんです。今まで経験したことのないような新鮮なことばかりですぐにのめり込みました。小6でミニバスの全国大会にも行けて、そのときのメンバーのほとんどが同じ中学に進んだので、中3で県大会優勝も経験できました。北信越大会では負けちゃったんですけど、もうそのころはバスケ一筋というか、強い高校に行ってバスケを続けたいと思っていました。
── それで東海大第三(現:東海大諏訪)に進まれたわけですね。
はい。振り返ると、高校での3年間は自分をいろいろ変えたように思います。僕は小6で175cm、中3で183cmとチームではデカい方だったんで、それまではずっとセンターをやっていたんですね。任されていたプレーはゴール下主体で、たまにミドルを打つぐらい。でも、高校に入ったとき、入野先生(貴幸ヘッドコーチ)が「高校で通用する選手じゃなくて、大学やその上のレベルで通用する選手を目指そう」とおっしゃって、そこから外角シュートやドライブの練習を始めました。シュートは下手くそでなかなか結果が出なかったんですが、だからこそ入るとめちゃくちゃうれしくて、それが自分のモチベーションにもなりました。それと、入野先生は“ディフェンスの東海大”の出身ですから、やっぱりディフェンスの練習は徹底していて、そこは鍛えられましたね。
── 高校での最高成績は?
2年上のザックさん(バランスキー・アルバルク東京)たちが連れて行ってくれた沖縄インターハイの3位です。自分たちの代ではインターハイベスト8、国体は準優勝まで行ったんですけど、シードで出場したウインターカップはまさかの初戦敗退でした。シードの難しさってあるんですよね。なかなか波に乗り切れず「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない」と思いながら立て直すことができなくて、最後に逆転されて負けるという試合でした。自分にとって高校最後の大会でしたし、不完全燃焼で終わったあの試合は今でも忘れられません。