── 何日ほど避難所生活を強いられたのでしょうか?
震災の翌日に1本だけ動いている電車があるという話を聞きました。もうその日、その電車しか動かないから、帰るならばそれに乗らなければいけないと言われて、急いでみんなで駅に向かい、なんとか全員帰省することができました。
── 体育館が被災し、寮も使えない状況の中、オフシーズン中はどう過ごされたのですか?
4月に入ってから一度、選手たちが会社に集合しました。そこで練習拠点を山梨県へ移すという話がありました。そこから3ヶ月間は山梨クィーンビーズのご厚意もあって、山梨県でシーズンへ向けた準備をすることができました。その後、茨城へ戻りましたが私たちの体育館は使える状況ではなく、ひたちなか市の体育館などを借りてシーズンに向けた準備をしていました。しかし、やっぱり使える体育館はなかなか無く、あの時はいろいろ探し回りました。また、寮は使えないためにそれぞれがアパート暮らしとなり、そこから体育館へ通うことにもなりました。
翌日、号外で知った原発事故の状況
── 日立ハイテクとしての練習環境が復旧したのはいつ頃ですか?
寮は未だにできておらず、アパート暮らしが続いています。体育館は震災前からもう古かったので建て直そうという計画があり、少しずつ進めていたところに震災が起きました。そのため会社の方々が「急いで建てよう」と急ピッチで進めてくれたおかげで、その年の10月くらいには完成しました。本当にありがたかったです。
── なかなか茨城県内の被害状況が報道されませんでしたが、3年目を迎えた先日、ニュースで海沿いの街では車が流されるシーンが映されていましたが実際にはどうでしたか?
海沿いに住む知り合いや友だちに話を聞いたところ、やっぱり茨城でも津波が来て家が本当に大変だった、と言ってました。ひたちなか市は海が近くなかったので津波被害は無事でしたが、海沿いに住まれている方々は苦労されたそうです。
── すでに復興されたという実感はできていますか?
会社としても、新たに「がんばろう」ということを昨年1年間も掲げていましたし、チームも一緒にがんばろうと思ってプレイしています。会社とチームがお互いに励まし合いながらここまでやって来ました。会社の方もだいぶ復旧し、通常以上に営業できるようになってきたとは思います。しかし、通常には戻ってはいますが、やっぱり原発とかの影響がどれくらいこっちに来ているのかという心配はあります。
震災直後は電気も通っておらず、テレビも見られない状況だったのですが、次の日に号外が出てそれを見て初めて原発事故のことを知り、「何が起きてるの?」と思いました。福島の方とは比べものにはならないですが、茨城は今でも頻繁に地震は起きていますので、ドキッとする時はあります。完全に安心ができる状況とはまだまだ言えません。