強化に携わる1人として豊島が今強く意識を傾けているのは、やはり日本全体のレベルアップ。東京パラで自らが残した成果をいかに今後に生かすかということを、常日頃から思い描いているようだ。
「初めて銀メダルを獲ったので、『僕もやりたい』と思ってくれた若い世代の選手がたくさんいますし、もともと競技をやっていた選手にも『頑張れば僕たちもメダルが獲れる』という期待を持ってもらうことができましたので、そういった夢をサポートできるように技術委員会としてしっかりやっていきたい。タレントが揃ってメダルが獲れたわけではないので、しっかり若い世代から発掘して、育てて、メダルにつなげられるようにやっていきたいと思います」
プロリーグが存在する海外とは異なり、日本はクラブチーム間の移籍が自由。コートに立つ5人の持ち点の合計が14点以内というルールがあっても、上を目指したい選手が強豪チームに集まるのは必然であり、当の豊島も、後に日本車いすバスケットボール選手権(天皇杯)11連覇の偉業を達成する宮城MAXに移籍したのは初優勝の後だ。「自分を磨き上げたい、もっと上手くなりたいという想いでいろんなことにチャレンジして、自分に合ったチームと出会うことが大事」という豊島は、若い世代の背中を押したい気持ちが強い。
その中で、豊島が重視するのは環境整備。引退を決断したのも、「私が残ることによって、下の世代が育たない、入ってこれない環境になってしまう。それで一線を退いたという部分がある」とのこと。「クラブチームは47都道府県全部にありますが、レベル差はあって、門を叩きにくい点はまだまだ課題」と言い、「1つのチームの中にも、始めたての選手がしっかり土台を作れるような、ジュニア世代をターゲットにした育成ができる場と、トップを目指す選手がより厳しい練習をできる場、その両方がある環境を作り上げていきたい」と、より成果の上がる強化の仕組みを模索しようとしているところだという。
今後の車いすバスケ界にどのような選手が現れるか、豊島の手腕に期待したいところだが、銀メダリストという価値を考えると、まだまだ豊島が表舞台に出ていくことも必要だろう。豊島自身も「メダルを獲って日が経つと需要がなくなってしまうと思うので(笑)、できるときには参加したいと思いますし、車いすバスケットボールだけではなく、バスケットボール界全体を盛り上げていけるようにと思っています」と、その役割は心得ている。宮城MAXでもチームメートだった藤本怜央は5歳上、香西宏昭(NO EXCUSE)は同学年。現役で長く頑張り続ける代表時代のチームメートもいる中、現役を離れた豊島の力もまだまだ車いすバスケ界にはいろんな意味で求められている。今回のWリーグオールスターは、そのことを示す機会でもあった。
文 吉川哲彦
写真 W LEAGUE