苦境が導いた覚醒のとき(前編)『内なる“闘争心”を解放し、皇后杯8連覇に貢献』 より続く
自らを貫くことで、開かれる道がある。
中田珠未の存在を初めて見たのは、彼女が明星学園高校の2年生のときだっただろうか。荒削りではあるが運動能力が高く、身長も180センチを越え、オールラウンドなプレーができそう。伸びしろを期待できる選手として「彼女の才能があれば高卒でWリーグに行けるんじゃないか」とさえ思っていた。
しかし彼女が選んだのは大学への進学だった。中田はその選択をこう振り返る。
「バスケットを始めたのが遅かったので、経験値の面でWリーグは難しいかなと思ったんです。同じ4年間でも、Wリーグに行って試合に出られない4年間を過ごすんだったら、バスケットにかける時間が短くなったとしても、大学で4年間試合に出ていたいって。当時の自分には試合での経験値が一番必要なんじゃないかなって思っていたんです」
中田がバスケットを始めたのは中学1年生のとき。しかもきっかけはあまりにも単純なものだった。小学校では吹奏楽をやっていたのだが、麹町学園女子中学の吹奏楽部には中田のやりたい楽器がなく、「じゃ、まぁ、いいか」とあっさり音楽の道を断ち切る。当時すでに170センチを越えていた彼女は、女子校であればなおのこと、その身長が注目の的になる。バスケット部とバレー部から勧誘を受けたが、仲良くなったクラスメートが「バスケット部に行く」と言うから、彼女もバスケットを始めた。単純だが、中学生ではよくある話でもある。
麹町学園女子中学としては大きな成果を上げられなかったが、中田自身は東京都のビッグマンキャンプや、ジュニアオールスターの東京都選抜のセレクションに参加していたという。これも背の高さを認められてのことだろう。
中学2年生で東京都選抜のセレクションを受けたとき、明星学園高校の高橋三絵アシスタントコーチが中田の“名前”に目を留める。有名だったわけではない。それでもなぜか高橋はその名前に惹かれた。当時、東京都選抜に選ばれると、大会に向けた強化のために明星学園高校が胸を貸していた。そのために高橋は候補者リストを持っていたのだが、中田は結果的にそのセレクションに落選している。東京都選抜として明星学園と練習試合はできない。それでも高橋は中田に「一度、明星の練習に来てみない?」と誘った。その年の11月、中田は明星学園高校の練習に参加している。
明星学園と言えば、全国制覇こそないものの、その決勝戦には何度も勝ち上がったことのある全国屈指の強豪校である。率いるのは椎名真一コーチ。その椎名から、中学2年生の中田ははっきりと「下手くそ」と言われている。「下手くそだけど、能力はあるし、センスもあると思うから、中3から転校して、まじめにやってみないか?」。