昨年、女性で初めて男子日本代表チームのアシスタント・コーチに就任し注目を集めた古海五月さん。若いバスケットファンから「どういう経歴の方なのですか?」と聞かれることも少なくなかったが、そのたび「すごい選手だったよ」と答えていた。
共同石油(現JX-ENEOSサンフラワーズ)時代は日本リーグ、オールジャパンともに3度の優勝に輝き、自身も2度のリーグMVPに選出された。日本代表選手としては6年間活躍し、1988年アジア選手権(フィリピン戦)でマークした前半20分で52得点という前代未聞の記録は今後も破られそうにない。共同石油を離れた後は、徳島県の北島ORクラブに所属したが、ここでは全日本クラブ選手権4連覇とともに国体連覇も果たした。
「私は決してうまい選手ではなかった」と、本人は言うが、あふれるエネルギーで相手を圧倒する存在感は群を抜いていたと思う。
裏表のないまっすぐな性格そのままにバスケットの道を突き進んできた人。西成(大阪市)の元気な女の子を主人公にした『じゃりン子チエ』という漫画に出てくる(主人公に勝るとも劣らないファンを持つ)まん丸目の猫‟小鉄„から付けられた『コテツ』という愛称がまさにぴったりだった人。
目の前に座る古海さんは、昔と同じ少ししゃがれた大きな声で話し始めた。好奇心あふれる大きな目、時折交える大きな身振り。「私の現役時代なんて失敗談の方が多いんですよ。今だから話せるような話もいっばいあるし」そう言って、ガハハハハと豪快に笑う姿はかつての元気印・原田五月そのままだった。
文・松原 貴実 写真・三上 太
学力優秀、運動万能、親分肌の優等生
生まれたのは玄界灘に浮かぶ島、長崎県対馬。「島に初めて信号機が設置されたのは私が小学生のとき(笑)」というほどのどかな島で海と山を遊び場にして育った。
女ばかり4人姉妹の末っ子だったが、長女とは11歳、すぐ上の姉とも6歳離れていたこともあり、「親も細かいことは言わなかったですね、とにかく1日元気に遊んでいればそれでいいみたいな(笑)」
当時から運動神経は図抜けており、体育の授業は1人だけ男子に交じって受けるほど。面倒見がいい親分肌で、年下の子どもたちからも「五月さん、五月さん」と慕われた。
「なんて言うか、淋しそうにしてる子をほうっておけないというか。そういうのは多分親の影響だと思います。うちの親は遠くから島に来た人に会うと『ごはんはもう食べたの?まだならうちで食べていきなさい』とか『宿は決まっているの? これから探すのならうちに泊って行けばいいよ』とかすぐに言う人たちで、初対面の人が一緒に夕飯を食べたり、泊っていったりするのが珍しくない家だったんです。そういうのをずっと見て育ったから、私もなんかそういうのがあたりまえになったんでしょうね。おせっかいでもついつい声をかけてしまう(笑)」
運動だけでなく、勉強もよくできたから誰もが一目置いた。中学になって始めたバスケットボールですぐにチームの中心選手なったのも当然のことだった。
そんな原田五月に転機が訪れたのは長崎県立豊玉高校2年のインターハイ県予選。
「1回戦で敗れるはずだったうちがベスト4まで勝ち進んじゃったんです」
選手の誰もがインターハイがどんなものなのかも知らないようなチーム。長崎で行われる大会に出発するとき、顧問の先生はすでにその日帰るフェリーのチケットを用意していたという。
「会場のトイレに入ったら『ほうぎょく高校ってどういうチーム?』という声が聞こえてきて、いや、うちは『とよたま高校だから』って(笑)それぐらい無名の高校でした」
だが、それだからこそ豊玉高校の快進撃は大きな話題を呼ぶことになる。いったいどんなチームなんだ? どんな選手がいるんだ? にわかに周りが慌ただしくなった。そのとき、当時鶴鳴女子高校(現長崎女子高校)の監督を務めていた山崎純男の目に留まったのが原田五月だ。荒削りだが、脚力がある。何より声が大きくて元気なのがいい。国体メンバーに選んでみるか…最初はその程度だったかもしれない。だが、国体選抜チームの練習があるたびに対馬からフェリーで通うのは大変だということになり、「ならば鶴鳴女子高校へ転校させたらどうか」と、話は急な展開をみせた。転校したのは夏休み、長崎に向かうフェリーの中でわくわくした気持ちを抑えきれなかったその日のことは今でもはっきり覚えている。
「あこがれの都会に行くんだ、新しい世界が開けるんだって思ったら、嬉しくてたまりませんでした。楽しみで、楽しみで、不安なんてこれっぽっちも感じなかったです」
だが、それから4ヶ月後、原田五月はチームから脱走した。
天国から地獄へ
鶴鳴女子高校の練習に参加した初日から、その厳しさに度肝を抜かれた。体力はあっても基礎がまったくできていないから、1つの動きをするたびにピッと笛が鳴る。
「シュートを打つとき踏み切る足まで逆だと言われ、ずっとそれでやってきたからびっくりしました。すべてが間違って身に付けたものばかりで、そのたびに笛が鳴って、注意され、怒られ、自分がなんで怒られているのかさえわからず、楽しかったバスケットがただただつらくて苦しいものに変わってしまいました」
毎日、毎日、怒られ続ける中で自分自身が委縮していくようだった。「島の優等生」原田五月が初めて味わった深い挫折感。
「もういやだと思ったんですね。もうここにいたくない。逃げようって」
対馬と並ぶ壱岐からやってきたチームメイトと2人で高速バスに乗り、友だちが住む福岡に向かったのは9月のこと。その夜は泊めてもらったアパートで今後のことをあれこれ話し合った。が、結論も出ないまま朝を迎えると、アパートの前には迎えにきた山崎監督の姿が…。
「先生の顔を見たら、なんだかもう戻るしかないなというあきらめの気持ちになって、その日のうちに長崎に帰りました。あっけない逃走劇でした(笑)」
しかし、原田五月の“逃走劇”がそれで終わったわけではない。3年生になった翌年の5月、今度は飛行機に乗って姉が住む東京に逃げた。
「今度こそはバスケットを辞めるつもりでした。東京に逃げたのは少しでも長崎から遠い所に行きたかったからです」
それなのに翌朝には山崎監督から電話が入る。「迎えに来たぞ」だったのか、「戻ってこい」だったのか、話した言葉の記憶は曖昧だ。ただ覚えているのは「すぐ近くの公衆電話からかけているんだ」という山崎監督の言葉。それを聞いたとき、ようやく心が定まり「帰ろう」と思った。
3度目の脱走、そして、覚悟
それほど苦しい練習の日々だったのに、卒業してもまたバスケットを続けようと思ったのはなぜなのか。
「不思議ですよね。あんなに辞めたかったのに、引退したらもっとバスケットがやりたいという気持ちになったんです。ここで終わりたくないな、もっとプレーしていたいなって。だから、共同石油の話を聞いたときは行きたいと思いました。実業団がどんな所かもわからなかったんですけどね。そのときは、ここ(鶴鳴女子高校)より厳しい世界はないだろうと思っていたし。ところが、あったんですよ、その世界が(笑)。共石の練習はそれまでと比べものにならないぐらいきついものでした」
現在のJX-ENEOSサンフラワーズの前身となる共同石油は、1974年に中村和雄(現bjリーグ新潟アルビレックスBBヘッドコーチ)が監督に就任して以来めきめきと力をつけ、その2年後に実業団リーグから日本リーグに昇格。小柄ながら鍛え抜かれた脚を武器とし、上昇気流に乗ったチームは、そのシンボルマークの花を文字って『ひまわり特急』と呼ばれた。常勝チームをつくるための練習の厳しさは有名で、体育館にはいつも中村監督の怒声が響き、ピリピリするような緊張感に包まれていた。
「毎日が怖かったです。ものすごいプレッシャーも感じたし、精神的にどんどん追い込まれていくみたいでした。みんなも同じように感じていたから、ある日、下級生が集まってみんなで逃げようという話になりました。‟辞める„じゃなくて、‟逃げる„です(笑)」
共同石油の選手たちは決められた日に東京・虎の門にある会社に出社し、午前中のみ仕事をしていたが、その出社日を“逃亡日”に決め、仕事の帰りに途中下車しようと約束した。上級生に見つからないように別々の車両に乗り込み、素知らぬふりをして途中駅の湯島で降りよう。みんなで逃げれば怖くない。そして、当日、約束どおり別々の車両に乗った電車は湯島に止まった。
「けど、電車を降りて周りを見渡したら、ホームにだれもいない。約束どおり途中下車したのは私だけだったんです(笑)」
みんな、どうしたんだよ~と思いながらも、こうなりゃ自分1人で逃げるしかないと姉の家に向かったが、翌日には長崎から早々と山崎監督が来訪。「とりあえずこれからいっしょに長崎に帰って少し考えろ」と言われた。
「その言葉に従って、その足で山崎監督と2人で長崎に帰ったんですが、少し考えるもなにも、なぜかその翌日にはまた共石の体育館に戻っていました(笑)」
山崎監督から口添えがあったのか、1人だけで逃げたことにあきれたのか、中村監督が大きな雷を落とすことはなく、再び以前と同じ厳しい練習の日が始まった。
つらいことに変わりはなかったが、もう弱音を吐いている時間はなかった。なぜならそれから間もなくしてレギュラー入りを告げられたからだ。同じポジションの先輩が急に引退したことで代わりにコートに出た原田五月は、その日の練習が終わると中村監督からこう告げられた。
「次の試合からおまえ、スタメンで出ろ」
バスケットが運んできてくれたもの
自分のバスケット人生を振り返るたびに不思議に思うことがある。高校で2回も脱走した私を山崎先生はなぜ迎えに来てくれたのだろう。もう辞めちまえと突き放すことなく、はるばる迎えに来てくれたのだろう。
社会人になってまで逃げた私を和さん(中村監督)はなぜまた受け入れてくれたのだろう。それまでろくに試合に出たことのない私をどうしてスタメンに起用しようと思ったのだろう。
いろいろ考えても答えは想像の中にしかない。だが、ただひとつわかっているのは逃げても逃げても、やっぱり自分はバスケットを断ち切れなかったということ。そして、覚悟を決めたその日から、どれだけ厳しくつらい練習でも弱音を吐かず全力で立ち向かっていったこと。
「振り返ってみると不思議な縁みたいなものを沢山感じるんですよ。バスケットを始めたきっかけは中学の先生がたまたま6歳上の姉のバスケットの先生だったからだし、高校で国体メンバーに選ばれたのもインターハイ予選でベスト4になったから。別にすごい実力があったわけじゃないんです。でも、それがきっかけで鶴鳴に転校することになった。共石だって請われて行ったわけではなく、和さんが以前に鶴鳴の監督だったこともあって、半ば拾ってもらったのかもしれない。少なくともそれほど期待はされてなかったと思います。それが先輩の急な離脱があって、代わりに出た練習でシュートがばんばん入ってこれまでにないようないいプレーができた。不思議ですよね。ほんとに決してうまい選手じゃなかったんです。言えるのは、いつも全力を出し切って戦ってきたということだけ。下に原田結花が入ってきたとき、センスあふれるプレーに驚きました。うまい選手ってこういう子のことを言うんだなぁ。ああ、これで私も安心して引退できるなぁと思ったことを覚えています。ところが引退を決めた年に結花が前十字を切る大ケガをして、あと1年プレーせざる得なくなった。でも、そのおかげでタイミングが合って徳島の北島ORクラブとのご縁ができた。そこで今の主人と出会うこともできたわけです。つながってますよねぇ、全部。バスケットがいろんな縁を運んでくれたんです。去年、男子代表チームのスタッフになったとき、メンバーに渡邊雄太(ジョージ・ワシントン大)がいたんですけど、私、雄太の小っちゃいとき知っているんです。北島ORクラブでお母さんの(旧姓)久保田久美さんと一緒にプレーしていたから。同じマンションに住んでいたんですよ。雄太はまだほんとに小っちゃくて。初めての代表合宿のとき、覚えてる?って聞いたら覚えてませんって、そりゃそうだ(笑)だけど、なんか嬉しかったですね」
諸事情で日本代表チームのスタッフを離れた後、すぐにU-16男子代表チームのトーステン・ロイブルヘッドコーチから「うちのチームのマネジャーとして力を貸してほしい」と電話があった。
「ものすごく嬉しかったです。練習がつらくて、つらくて、3度も逃げ出した自分だから、それでもそれを乗り越えてきた自分だから、若い選手たちに伝えられることもあるはず。こういう性格だから思ったことは正直にばんばん言いますよ(笑)」
実生活では二女の母、単なるマネジャーとしてだけでなく、ときには母のような視点で選手たちに接していければと思う。
「バスケットにはやっぱりたくさんのものをもらったから、自分ができることで精一杯返していきたいと思っています。そういえば和さんに会うと今でも必ず言われるんですよ。『おまえ、共石を脱走したとき、迎えに来てくれた山崎(監督)に飛行機代返したか?』って。ガハハハハ…そっちの方はまだ返していません(笑)」
ガハハハハ…その笑い声が好きだったことを思い出す。ガハハハハ…原田五月が古海五月になった今もパワフルでまっすぐなバスケット界の『コテツ』は健在だ。
古海五月(旧姓:原田五月)
1963年5月26日生まれ。長崎県出身。
長崎県立豊玉高校→鶴鳴女子高校→共同石油(1982年~1990年)
共同石油時代:日本リーグ3回優勝/全日本総合選手権大会3回優勝/日本リーグMVP2回受賞/日本リーグベスト5賞4回受賞/スリーポイント王受賞
1984年~1990年まで日本代表メンバーとして活躍。内4年間はキャプテンを務める。
現在は公益財団法人 日本バスケットボール協会勤務。昨年の男子日本代表チームのアシスタント・コーチを経て、U-16男子代表チームのマネジャーに就任。