Bリーグにも20代で現役を退く選手はいるし、Wリーグにも30代後半までプレーを続ける選手がいないわけではない。いずれにしても、志半ばで舞台から降りる選手のほうが多いシビアな世界であることに変わりないが、中には若くして自ら引退の道を選ぶ選手もおり、それはBリーグよりもWリーグのほうが多い。クラブにも選手個人にも様々な事情がある中、個人の人生設計という観点で考えた場合、男性よりも女性のほうが引退の年齢が若くなるのは致し方ない部分もあるだろう。
ただ、粟津雪乃が東京羽田ヴィッキーズでプレーした昨シーズンを最後に引退したのは、将来を考えた上での決断というわけではなかった。
「自分的には満足できるバスケット人生だったなと思ったんです。やり残したこともなかったし、楽しいままで終われるのが今かなと思って。ケガも多かったので、昨シーズンはケガなく終われたというのが一区切りとして良かったかなというのも感じて、引退を決めました」
東京羽田から契約満了と現役引退が発表されたのは、粟津が25歳の誕生日を迎える前だった。桜花学園高からデンソーに進み、2シーズンで退団して愛知学泉短大に入学。その後加わった東京羽田でプレーしたのも2シーズンにすぎない。ファン心理としては、本人の決断を尊重しなければならないと思いつつ、あまりにも早すぎるというのが率直なところに違いない。昨シーズンは欠場も少なく、貢献度も高かったから尚更のことだ。しかし、当の粟津自身は引退の決断に迷いはなく、後悔もない。スッキリとユニフォームを脱ぐことができたのだ。
前述したように、引退を決めた時点では将来のことは特に考えておらず、何かやりたいことがあったわけでもなかったが、東京羽田からの引退のリリースの中で、四日市メリノール学院中・高の指導にあたることを表明している。これは、同校を率いる稲垣愛コーチの存在なくしては語れない。粟津は同じ四日市にある朝明中で全中準優勝を経験。そのときの指導者が稲垣コーチだった。
「シーズンが終わって引退するときに恩師に連絡したところ、『どう?』って打診をいただきました。コーチをやろうと思ってたわけでは全然なかったし、引退した後のことはこれから決めようと思ってたんですけど、即決でした。子どもたちと一緒にバスケットをやるのが好きだったし、恩師は自分のバスケット人生でだいぶ支えていただいた先生だったので、恩返しがしたいなって、それが一番大きいですね」
本人のコメントにもあるように、もともとコーチ業を志してはいなかった。粟津にとっては、再びゼロからのスタート。「毎日子どもたちと一緒に恩師のバスケットをまた勉強して、子どもたちと一緒に失敗して成長して、というのを繰り返して……今はまだそんな状態です」と、フレッシュな気持ちでバスケットと向き合う日々は、現役時代と同等か、あるいはそれ以上の楽しさを感じられる日々でもある。