5月上旬、今年も能代カップにお邪魔した。能代市バスケットボール協会と能代市山本郡バスケットボール協会が主催する同大会は、インターハイ、国体、ウインターカップに次ぐ「第四の全国大会」と言われるほどレベルが高い。ホストチームはもちろん秋田県立能代工業高校である。
その歴史が公式プログラムの主催者挨拶のなかに書かれている。
第1回大会がおこなわれた1988年12月、能代工業はアメリカ遠征をおこなった。行先はケンタッキー州レキシントン市。NCAAの強豪大学・ケンタッキー大学のある街である。そこでは全米各地からトップレベルのチームを集めた大会が実施されていた。レキシントン市民はバスケットに携わることを誇りとし、グッズショップあり、公園にはバスケットリングありと、まさにバスケット一色だった。
それを目の当たりにして、当時の能代工業監督だった加藤廣志は「能代でレキシントンのように全国の強豪チームが集まる大会を。インターハイ、国体、ウインターカップでの迫力や感動を市民や地域の方々に体験を。能代をバスケットの街に」と考え、今年で31回目となる『能代カップ』の発展に尽力していく。
加藤の思いはしっかりと花開き、今年も多くの能代市民や高校バスケファンなどが、まだまだ粗削りながら、全国トップレベルの高校生たちの迫力あるプレーを堪能させた。
しかし、当の加藤は能代市総合体育館に姿を見せることはなかった。3月4日に肺腺がんのため亡くなったのだ。享年80。
ここ数年、闘病生活を送られていたそうだが、それでもご存命であれば、毎年5月3日から5日は能代カップがおこなわれているので、そこに思いを馳せることもできただろう。今年はそれさえも叶わない。
2年前だっただろうか、筆者も能代カップで加藤の姿を見掛けたことがある。ゲームを穏やかに見ている表情がとても印象的だった。これが“あの”能代工業を作り上げた人なのか。筆者が高校バスケットの取材を始めたときはすでにコーチを引退されていたので、話を聞くことは一度もない。それでも卒業生からは「大将」と呼ばれ、尊敬とともに畏怖もあった。この穏やかな方がそう漏れ聞く鬼コーチなのか。
そんな表情も、今年は関係者席であるステージ上に飾られた遺影の中でしか見られない。今年は名実ともに“大将”のいない、初めての能代カップだったわけである。
加藤廣志の引退後は、教え子である加藤三彦(現・西武文理大学HC)、佐藤信長、栄田直宏と引き継がれていったが、ここ数年の能代工業は、2015年の第46回ウインターカップで3位に入賞した以外、めぼしい結果を残せていない。能代カップに至っては、2016年、2017年と2年連続で1勝もしていない。
そんな苦しい状況を打開すべく、やはり加藤の教え子であり、選手時代は日本代表を経験、コーチとしても日本のトップリーグで頂点に立ったことのある小野秀二が実質的な指揮を執ることになった。それについてはまた別途記そうと思うが、今年度の大会初日に市立船橋を破り、3年ぶりの勝利を挙げたあと、アソシエイトコーチとなった小野は、恩師でもある加藤がいないことについて、こう触れている。
「本来であれば、能代カップでこのチームを見てもらいたかったです。2年間、闘病生活をされていたのは我々OBもみんな知っていましたが、ただあの時期に亡くなられるとは……もう少し先だと思っていました。とにかく今のチームを、この能代カップで見てもらいたいという思いでやってきたので、とても残念です。先生に見てほしかったし、またアドバイスも欲しかったです」
今年1月に還暦を迎えた小野にとって――むろんこれは誰でもそうだろうが――恩師はいつまでも恩師であり、「先生」なのである。実際の先生だったころは鬼のように厳しく、内心で怒りを覚えたこともあるだろう。しかし卒業し、自身も指導者・コーチへの道に進んだとき、やはり先生のアドバイスが欲しいと思えるのは、自分の原点がそこにあるからだ。
明成を率いる佐藤久夫は能代カップに第2回大会から出続けている。当時は仙台高校のコーチだったが、彼はバスケットコートだけでなく、碁盤を挟んで、加藤と勝負勘を高め合うなど親交を深めてきた。それだけに加藤と能代カップには強い思いがある。他校のコーチに故人について聞くのはどこか憚られるが、それでも加藤のいない初めての能代カップをどう感じているのか聞いてみたい。すると佐藤はゆっくり、丁寧に答えてくれた。
「さみしさはあるよ。廣志先生の一言が俺らには効いていたからね。この大会に全国の強豪チームが集まるのは、大会そのものの素晴らしさもあるけど、加藤廣志先生の偉大さが俺らを集めてくれていたというのもあるんだ。絶対にそれはあるね。そういう意味でも廣志先生が亡くなられてさみしい。でも、どこかで、我々は日本人だから、廣志先生はいないけれども、廣志先生の魂は残っているんだと感じているわけ。廣志先生が能代カップを作ってくれて、そして今年亡くなられたけど、その魂は永遠の語り草として残ってほしいなと思う。そしてそれは時が経っても忘れちゃいけないことなんだよ。我々のように廣志先生を知っている者はそれを伝えていかなければいけないし、日本の高校バスケット界に能代工業があり、加藤廣志先生の存在があったことはつないでいかなければいけないんだ。今はその気持ちでいっぱいだよ」
今でこそ能代工業にも明成にも190センチ台の選手がいるが、彼らの歴史を紐解けば、やはりどこにでもいるような背の小さい選手を鍛えに鍛えて、全国の頂点に立つことが源流にある。ひいてはそれが日本のバスケットボールの原点とも言える。原点の原石を磨いてきた者同士の矜持が、佐藤の言葉にはある。
チームの礎を築いた指導者を亡くしたのは能代工業だけではない。福岡大学付属大濠の前コーチ、田中國明も急逝している。加藤が亡くなって3週間も経っていない3月23日、チームがおこなっていた遠征先でのことだった。
田中のあとを引き継いでいる片峯聡太が言う。
「今のところは田中先生がいないから、自分の指揮に直接影響が出ていることはありません。でも選手たちには田中先生や、それこそ加藤廣志先生のようにバスケットに対して熱い気持ちを傾けてきてくださった方々のためにも、バスケットへの情熱や勝利への執念を体現することが僕らの役割だぞと言っています」
そして自身の恩師である田中への思いをつなぐ。
「今年は楽しみな選手が何人もいるので、チームの成長もそうだし、個々の成長も田中先生は楽しみにされていたんです。きっとどこかで見ているだろうから、サボったら大変なことになるぞと」
話を聞いたのが能代カップの初日、初戦で洛南に逆転負けを喫した直後だっただけに、どこからか田中の喝が飛んできそうな気がした。
取材で会えば、いつも、元気に声をかけてくれた。そうか、もうあの矍鑠とした姿が見られないのか……。
東西の“大将”がいない今年の能代カップは、やはりさみしい。しかし彼らの魂は間違いなく能代カップに出場するコーチや選手たちに受け継がれるはずだ。なぜならバスケットの目が肥えている能代市民にもまた、大将たちの魂は受け継がれているのだから。手を抜いたり、安っぽいプレーをしようものなら、“大将”たち以上の厳しい評価を受けることになる。
大将たちの魂が観客にまで宿る能代カップは恐ろしく、しかしいつも温かい。
B.LEAGUEが終わり、ここからは日本代表活動とともに学生たちのバスケットが本格化してくる。関東大学バスケットは新人戦が始まるし、高校バスケットもインターハイに向けた熾烈な都道府県予選と、6月は地方ブロック大会も並行的に開催される。
ここでは今年度の高校バスケットの序章ともいうべき「第31回能代カップ」の様子を5回に分けてレポートする。
(敬称略)
文・写真 三上太