卒業後は、昨年度までインカレ6連覇を誇った東京医療保健大に進むことが決まっている。中学のときに見て憧れ、岐阜女子への進学のきっかけとなった林真帆とは入れ替わりになるが、同じ岐阜女子出身のシューターとして、絈野も大学界を賑わせる存在になるだろう。目標は高く、オリンピック選手。表彰式の後にはJBA・三屋裕子会長から声をかけられる一幕もあった。その目標に到達する日は、そう遠くないかもしれない。
もう一つ、岐阜女子を語る上で欠かせないのは、やはり安江コーチの存在だ。絈野が「岐阜女子に来て良かったなって思います」と語るのも、「先生のおっしゃることは全て名言みたいな感じ。一つひとつ逃さず、自分の心に受け止めるのが習慣になってて、いつもそれが力になっていた」というのが理由の一つ。部員全員が寮生活を送る岐阜女子では、オン・オフを問わずコーチ陣と部員の結びつきが強く、絈野は「普通に生活してるときは優しいおじいちゃん(笑)。可愛らしいところもあって、癒される場面もあります。バスケットに関してもたくさん声をかけてくださって、こういう自分を作ってくださったので感謝してます」と3年間を振り返った。
具体的には、「これは言っていいのかどうかわからないんですけど(笑)、たまに物忘れが激しくなることがあって、言ったことを覚えてなかったりして、みんなで『可愛いな~』って言ってます(笑)」(絈野)とのこと。厳しい部活動の世界で指導者と生徒の良い関係が築かれ、安江コーチが心の拠り所になっているということがよくわかる。
その安江コーチが明かした話も一つ紹介しておこう。決勝戦後の記者会見に登壇した安江コーチは、メディアからの質問に一通り答えた後、数秒の沈黙を挟んで「実を言うと……」と話を切り出した。
「東京に出発する前の日に、本学園の(松本博文)理事長が亡くなったんです。私が岐阜女子高校に来て、バスケットボール部がないところから始めるときに、『よし、じゃあ作ってみろ』と言ってくださって、岐阜インターハイが近づいたときにも、『このままでは勝てない。留学生を獲ってチームを強化したいんです』と話をしたら『よし、やれ』と。そうやっていっぱい背中を押していただいた方が亡くなってしまって……まだご霊前に手を合わせてもいないんですが、準々決勝の残り30秒、1点負けてるときに、普段こんなことはないんですが『理事長さん、力を貸してください』って思いました。いろんな想いがあった大会でしたので、結果は優勝ではなかったんですが、子どもたちが本当に十二分に戦ってくれて、そんな子どもたちを指導者として誇りに思います」
地元に戻り、新卒の教員として赴任して48年目。ゼロからバスケットボール部を作り、全国屈指の強豪に押し上げるまでには、並大抵ではない苦労があったに違いない。どんな場面でも表情を変えず、冷静さを保って試合を見守る安江コーチも、このときばかりは涙声。安江コーチが話を終えると、記者会見場は拍手に包まれた。決勝戦は敗れてしまったが、今年の岐阜女子は称賛に値するチームだった。
文・写真 吉川哲彦